第7回 上野・谷中 界隈 解説 |
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1.上野恩賜公園
上野の名は、江戸時代初期に伊賀上野城主・藤堂高虎の屋敷地だったからと言われている。この地の発展は徳川家康のブレーンであった天台宗大僧正 南光坊天海が江戸城の安寧祈願を目的として鬼門に当たる当地に東叡山寛永寺を建立したことに始まります。比叡山延暦寺に因んだ山号をつけ、寺号を年号にしている。完成時は壮大な伽藍が上野山全体を覆う大寺院でした。寺領も破格の1万石で、増上寺が5000石、浅草寺が500石だったことを見ても破格の扱いを受けていたと言えます。長い太平の時代で、当地は鬱蒼とした樹木や吉野から移植された桜が生い茂る江戸庶民の憩いの場所になっていました。しかし、幕末の彰義隊戦争において堂塔の多くが焼失し、焼け野原になってしまいました。明治になってからこの地に大学医学部を作る案が出ましたが、自然が失われることを惜しまれ、西洋式の都市庭園になりました。明治10年勧業博覧会がされるとその施設が取り壊されず、そのまま恒久施設として博物館、美術館などに使用されました。その後動物園、音楽学校などの諸施設も建てられて今日に至っております。
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2 東京文化会館
1961年4月につくられた東京の本格的なクラシックの大音楽堂で、建築家 前川國男により設計建築された。クラシック音楽コンサートやバレエ、オペラの専用大ホール(客席数 2,303席)、室内楽、ピアノ、合唱等比較的少人数のクラシック音楽演奏会に適した小ホール( 649席 )を有し、広くゆとりのあるバックステージを備えている。また、クラシック音楽や邦楽、民族音楽の映像、楽譜、図書を多数所蔵している専門図書館も設置されている。
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3 国立西洋美術館
国立西洋美術館は、多くの世界遺産を建築設計したスイスの偉大な建築家・ル・コルビュジエの無限に成長する美術館という構想に沿って建てられたものである。館内には、第6代首相
松方正義の次男で実業家の幸次郎が収集した美術品のコレクション、いわゆる松方コレクションを中心に、昭和4年に開館した。フランス印象派の絵画、ロダンの「地獄の門」「考える人」「カレーの市民」など現代彫刻も多数陳列されています。
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4 正岡子規記念球場
俳人 正岡子規は明治時代の始めに日本に紹介されて間もないベースボールを愛好し、明治19年〜23年にかけてここ上野公園内でプレーを楽しんでいた。子規の随筆「筆まかせ」には、明治23年3月21日午後に上野公園博覧会空き地で試合を行い、子規は捕手を守った事が記されております。子規は幼名を升(のぼる)といい、ベースボールを自らの名前を文字って「のぼーる 野球」と命名したと言われています。子規は野球を俳句や短歌そして随筆に描いて、その普及に貢献しています。「打者」「走者」「直球」などの子規の訳語は現在でも使われています。これらの功績から子規は平成14年に野球殿堂入りしています。
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5 天海僧正毛髪塔
天海は江戸初期の天台宗の高僧で諡号(しごう)を慈眼大師という。天文5(1536)年奥州会津で生まれた。11歳で出家、14歳で比叡山に登り、僧実全に師事して天台教観を学び、さらに三井寺や奈良で諸教学を身に付けた。のちに江戸崎不動院、川越喜多院の住職を務め、徳川家康の知遇を受けた。元和2年(1616)家康が没すると、その神格化にあたり、権現号の勅許を計り、合わせて日光廟の基本的構想を立てて造営を指導した。その後も2代将軍秀忠、3代家光の帰依を受け江戸城鎮護のため上野忍ヶ岡に寺院建立を進言して、寛永2(1625)年寛永寺を創建した。寛永20(1643)年、子院の本覚院にて108歳にて入寂した。遺命により日光山に葬られ、この地に供養塔が建てられた。のちに、本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ毛髪塔と呼ばれるようになった。
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6 彰義隊士墓碑
慶応4(1868)年、正月、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れ、15代将軍徳川慶喜は江戸に戻り、寛永に蟄居して恭順謹慎を表し朝廷の沙汰を待つ姿勢を示しました。この間、江戸城では幕臣の間で恭順派と抗戦派が対立し、抗戦派者たちは徳川慶喜の助命嘆願と大義を彰にする意を掲げて「彰義隊」が結成されました。しかし、勝と西郷の会見により、4月11日に江戸城の無血会開城が行われ、慶喜も水戸に謹慎となって江戸を去りました。政府軍は江戸を支配しましたが、治安維持までは手が回らず、旧幕府の南・北町奉行と寛永寺に集結した彰義隊に治安維持を託しました。この状況下、江戸の町では新政府軍の兵士と、旧幕臣との間でいざこざが頻発するようになりました。3千名を超える規模に膨れ上がっていた彰義隊と新政府軍との武力衝突を恐れた幕閣の勝海舟らは山岡鉄舟を差し向けて彰義隊の解散を求めましたが、天野八郎らの急進派は拒絶し、輪王寺宮(北白川宮能久親王を擁して新政府へ反抗する行動に出ました。これを鎮圧するために新政府は大村益次郎を統率者として軍を整え、5月14日討伐の布告を出し、総攻撃を加えました。圧倒的な兵力数とアームストロング砲などの新兵器を駆使した政府軍は僅か1日でこれを平定しました。この戦いで寛永寺の塔堂の多くが焼失し、105名の彰義隊士が落命しました。遺体はしばらく見せしめとして放置されていましたが南千住円通寺の住職らによって当地で荼毘に付されました。明治14年元彰義隊士らによって墓石が建立され、賊軍であるために政府を憚って彰義隊の文字はないが、山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字が刻まれました。大きな墓石の前に小さな墓石が祀られています。小さな墓石は上野戦争の直後、寛永寺塔頭の寒松院と護国院の住職がつくって、密かに地中に埋めておいたものです。いわば初代の墓石です。
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7 西郷隆盛像
♪西郷隆盛 上野の山で 広い東京 オハラハー ひとにらみ ♪鹿児島おはら節に歌われた西郷隆盛像は西南戦争で西郷が自刃してから21年後、朝敵の恩赦を受けた明治31年に建立されました。この像は高村光雲(傍らの犬は後藤貞行)が作成し、西郷が愛犬ツンを連れて、兎狩りに出かけているときの姿を表しています。銅像の高さは、台の高さと同じ3.7m。除幕式には、糸子夫人が招かれ、その時「うちの主人はこんな人ではなかったですよ」と語ったことが「こんな顔ではなかった」とも「人前にゆかた姿では出歩かなかった」との意にも受取られ、当時の話題になったと言われています。余談:坂本龍馬は西郷と会ったときの印象を勝海舟に次のように語っています。「西郷はつり鐘のような男だ。少なく叩けば少なく響き、大きく叩けば、大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」
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8 清水観音堂
寛永8年(1631)天海が京都清水の観音堂に倣って建てたのが始まりで、ここには林羅山の学問所がありました。朱塗りの観音堂は現存する寛永寺の建造物では一番古く安政の大地震、上野戦争、関東大震災そして戦災の難も免れました。本尊
千手観音像は名僧恵心の作と伝えられ、京都清水寺から将軍家光に献上されたもので重要文化財に指定されています。脇仏の子育て観音は、子が授かるとお礼に人形を奉納する習慣があり、現在でも彼岸会では人形供養が行われています。芭蕉の門弟宝井其角は「鐘かけて
しかも 盛りの さくらかな」と詠んでいます。
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9 五条天神社
第12代景行天皇時代(約1900年前)日本武尊が東夷征伐の為、上野忍が岡を通った際に薬祖神の御加護に感謝し、当地に祀ったのが創始といわれている。のちに京都の五条天神を勧請して菅原道真を合祀し、医道の神として崇敬を集めてきた。祭神2柱は兄弟の緑を結び、特に疫病や風土病に苦しむ人々に製薬と治療の方法を授けたことから医薬の祖神として信仰され、また常陸・大洗磯崎神社、大阪中央区・少彦名神社と共に三大薬祖神の一つに数えられている。また亀戸天神社・谷保天神社(国立)と共に江戸三大天神の一つにも数えられている。ただし、湯島天神をもって三大天神という説がある。また、境内にある花園稲荷神社は男女の縁だけでなく、すべてにおいて良い縁を結び、人間関係を円滑にしてくれるご利益があると信仰されています。
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10 大仏山パコダ
この丘は、かって「大仏山」と呼ばれ、丘上には大きな釈迦如来座像が安置されていました。最初の大仏は、越後村上藩主堀直寄が、寛永八年(1631)に4.8mくらいの粘土漆喰の釈迦如来像を建立しましたが正保四年(1649)の地震により倒壊してしまいました。その10年後、浄雲上人が江戸市民からの浄財を集めて7m余りの大きな青銅製の堂々たる釈迦如来座像を造立しました。そののち、東叡山山主である輪王寺宮が、同像を風雨から覆うための仏殿を建立されましたが、火事や地震による損壊・再建を繰り返しました。明治6年上野公園開設の際には、仏殿が取り壊され、関東大震災では大仏の頭部が落下、さらに大戦時の金属提出令によって大仏の体・脚部を国に提出したため、面部のみが寛永寺に残されました。戦後、昭和47年当地に「上野大仏」の顔をレリーフ状にして奉安されました。また、「パゴダ」(仏塔)は上野公園の観光名所の一つとして建設され、昭和42年に完成しました。高さ15メートル、内部には薬師如来、左右に月光、日光菩薩を安置しています。この薬師三尊像は、江戸末期まで東照宮境内にあった薬師堂の本尊で、明治初期の神仏分離令によって寛永寺に移管、さらにパゴダの本尊として迎えられた。
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11 お化け燈籠
佐久間大膳亮勝之(だいぜんのすけかつゆき)が東照宮に寄進した石造の大燈籠で、日本三大燈籠に数えられています。高さ約6m、周囲3.6mであまりの巨大さからおばけ燈籠と呼ばれています。佐久間大膳は織田信長の武将盛次の四男、母は柴田勝家の姉という典型的な戦国武将。15歳で初陣してから生涯を合戦で生き、関が原・大阪夏の陣で功を上げて、家康から1万8千石の駿府勤番主を与えられました。千利休に茶道を学び風雅の面も持ち合わせ、同型の灯籠を南禅寺、熱田神宮にも奉納しています。
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12 上野東照宮
徳川家康を祭った社。3代将軍家光造営当時の建築が現存しています。石造神明鳥居から山道に並ぶ50基の青銅燈籠、唐門,透塀,拝殿,幣殿,本殿などはすべて重要文化財。元和元年(1616)4月17日に家康は死去したが、その後神格化されて日光東照宮が造営されました。江戸には浅草寺境内に東照宮が造営され、毎月17日には、江戸詰の大名諸侯は参詣に出向いていました。大名の中で家康に対する敬慕心の高かった伊賀上野藩主
藤堂高虎は、自らの屋敷内に東照宮を勧請していました。そんな折、浅草の東照宮が火事で焼失してしまい、大名諸侯たちは藤堂家にある東照宮へ参詣に来るようになりました。上野山が将軍家の寛永寺になると、3代将軍家光は東照宮社殿を権現風に造り替えを命じました。これが今日の東照宮です。因みに山道入口の石造神明鳥居は上州厩橋城主
大老酒井雅楽頭忠世、透塀前の青銅灯籠は尾張、紀伊、水戸の御三家、小松石材の水盤舎は東照宮造営奉行の阿部重次が奉納したものです。
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13 グラント将軍夫妻植樹碑
リンカーンに最も信頼され、南北戦争で北軍を勝利に導いたユリシーズ・グラント将軍は、後にアメリカ合衆国第18,19代大統領を全うしました。大統領職を辞した後、世界各国との友好外交の旅に出て、明治22(1879)年6月21日に来日し、8月30日に帰国するまで、約2ケ月間、日本に滞在しました。親日的で日本との友好に力を注ぎ、明治天皇はじめ多くの日本の政界の人たちと会って親睦を深め、日本と諸外国との関税協定が不平等であることにも理解を示しました。そして欧州各国との外交交渉などのアドバイスや日清間との琉球問題についても調整を図るなどの貢献を果たしました。その他、日光や箱根などに出向いて日本の美を堪能しています。明治4年に岩倉使節団一行が渡米した際、同大統領から厚い供応を受けたこともあり、8月25日には上野公園で朝野を上げた盛大な歓迎式典が行われました。明治天皇と共に、日本の剣術、槍術などを観覧した夫妻はすこぶる上機嫌で記念植樹を行いました。碑は、このときの歓迎委員であった渋沢榮一、益田孝らによってこの式典を記念するために建てられました。
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14.旧東京音楽学校 奏楽堂
この建物は、明治23(1890)年東京音楽学校本館として建設されました。わが国初の本格的な音楽ホールで、中央天井をかまぼこ型に高くして視覚、排気、音響上の配慮がなされた設計になっています。また、壁面や床下に藁や大鋸屑が詰められ遮音効果を上げる工夫もされています。この奏楽堂からは滝廉太郎、山田耕筰、三浦環(たまき)など国際的な音楽家が巣立っていきました。老朽化した建物は昭和62(1887)年に移築復元されました。(重要文化財)
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15 旧因州池田屋敷門(通称:黒門)
この門は、現在の丸の内帝国劇場界隈の大名小路にあった因州鳥取藩池田家32万石上屋敷の表門でした。大名家だけに許される両出番所(門番の詰所)付きの門で、屋根は格式の高い入母屋造(いりもやづく)り、門扉は鋲釘がびっしりと打たれた頑丈なもので、豪壮な大名屋敷門の典型といわれています。この門は高輪にある高松宮邸の表門として使用されていましたが、昭和29年、この地に移建されました。
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16 東京国立博物館
明治15年(1882)3月、第2回内国勧業博覧会で出品された美術品を集めて、博物館として開館された。設計はジョサイア・コンドルで2階建てレンガ造りのものであったが、関東大震災で損壊し、現在の建物は昭和2年に再建されたものです。日本の古美術を中心に、国宝73点、重要文化財404点のほか考古遺物、美術工芸品など9万点を所蔵し、常時陳列展示している日本最大の博物館です。
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17 殉死者の墓
慶安4(1651年4月三代将軍家光の死去に際し、老中阿部重次、堀田正盛他、家光の側近や家族たち12名が殉死した。ここはその殉死者たちの墓域です。殉死とは主君の後を追って、その家臣や家族らが自殺することで、特に武士の世界では追腹(おいばら)という風習があった。二代将軍
秀忠の時に禁止されたが、この頃はまだ美徳とする傾向が残って、その是非が論議されていた。しかし、家光の義弟である会津藩主保科正之の進言により、寛文3年(1663)保科正之の献案を四代将軍家綱が厳禁令を出したことで、その後、殉死はなくなった。森鴎外はこのテーマを取り上げて小説「阿部一族」を書いている。また、家光の最も側近であった”知恵伊豆”こと松平信綱は家綱の補佐を家光から委託されていたため、殉死しなかったのであるが、江戸の市民は非難し、「伊豆まめは、豆腐にしては、よけれども、役に立たぬは切らずなりけり」と皮肉ったという。
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18 寛永寺
寛永寺は江戸城の鬼門に当たる上野忍ガ岡に徳川幕府の安泰と江戸城鎮護のために創建された天台宗関東総本山であり、徳川家の菩提寺です。余談ながら、もう一つの菩提寺である芝の増上寺は浄土宗関東総本山です。承応3(1654)年、後水尾天皇の第三皇子守澄法親王が入山して以来、明治維新まで歴代皇族が住職を勤めた。彰義隊の上野戦争では本坊、中堂、阿弥陀堂など多くが焼失しました。明治4(1871)年寛永寺の復興が許可され、川越喜多院の本堂が寛永寺大慈院跡に移築され、現在、寛永寺の根本中堂(本堂)になっております。本堂には国重要文化財である高さ1.8mの本尊薬師如来像および脇持像が安置されています。本堂裏手には、15代将軍徳川慶喜が謹慎していた大慈院「葵の間」が残されています。
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19 徳川将軍廟
寛永寺の徳川将軍家の墓所は厳有院)霊廟と常憲院霊廟があり、それぞれ青銅製で高さ3メートルの宝塔、勅額門、水盤舎、唐門が建てられている。厳有院霊廟の敷地には、四代家綱(院号厳有院)十代家冶、十一代家斉の宝塔があり、常憲院霊廟の敷地内には五代網吉(常憲院)八代吉宗、十三代家定の宝塔が建っている。13代の正室天璋院
/ 篤姫はここ眠っています。
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20 大雄寺
ここは幕末の三舟の一人高橋泥舟の墓で知られている。泥舟は槍術の名人といわれ、書家としても高名でした。幕府講武所の槍術指南を勤め、江戸開城の折には徳川慶喜に恭順を説き、慶喜が江戸から水戸に下る間、その身辺警護役を果たした。幕府崩壊後は幕臣として節を貫き、明治政府からの度々の勧誘にも耳を貸さなかった。一切の公職に就かず、清貧の生活を送り、明治36年69歳で他界した。彼の生涯については、子母沢寛が小説「逃げ水」に遺(のこ)しています。
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21 自性院
江戸初期、慶長16(1611)年創建の古寺で、通称、愛染院とも言われ本堂に愛染明王を安置している。愛染明王は三面六臂の姿で知られる真言密教の神で、縁結びの神として家庭円満のご利益があると崇敬されています。川口松太郎は、この愛染明王像と境内の桂の木を見て、小説「愛染かつら」の構想を得たといわれています。
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22 瑞輪寺
谷中の名刹の一つで、天正15(1591)年日本橋馬喰町に創建されましたが、慶安2(1649)年市内整備のため、この地に移転されました。日蓮宗の中で高い格式をもち、最盛期には15の塔頭を持つ大寺院でした。同寺には井上毅(こわし)、大久保主水忠行の墓があります。
井上毅:明治国家形成のグランドデザイナーとしての法政家。熊本藩校時習館に学び、秀才をもって知られ、早くから漢学の無用を悟り江戸に出てフランス学を幕府の開成所で学んだ。維新後は大学の小舎長に任官し、のちに司法省の官僚に転じ,た。岩倉遣外使節団の随員となり,約2年間、フランスで司法行政を学んだ。
明治14年(1881)国内で憲法制定議論が高まると、大隈重信や福澤諭吉が主張するイギリス型憲法に反対し、プロイセン型国家構想を主張して、草案を伊藤博文に提出した。伊藤は「天皇を中心」とした国家体制の基本としている井上案に理解を示し、21年(1888)彼を憲法制定会議の司会役に任命して明治憲法制定を行った。井上は、23年(1890)枢密顧問官となり、教育勅語を起草。26年(1893)には第2次伊藤博文内閣の文相に就任した。
大久保主水忠行:徳川家康の三河以来の家臣の一人。戦で負傷し武士を捨て菓子業を営んでいたが、家康に呼出され、江戸の上水づくりを命じられた。彼は江戸郊外の地形を調査し、井の頭池と善福寺池の河流から神田上水を引くことを英断して、工事にかかり、わずか3ケ月で完成させ、江戸市中に給水させることに成功した。家康は大いに喜び、忠行に主水の名を与え、「水が濁りを嫌うので、モントと澄んで呼ぶようにしろ」と命じたと言われています。
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23 .全生庵
当庵は、山岡鉄舟が国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治16(1884)年に建立しました。鉄舟は剣・禅・書道に比類なき才能を備えた剛胆な武士で、身の丈は6尺2寸(185cm)もあったと言われています。勝海舟の使者として駿府に赴いて、西郷隆盛と会見した際、徳川慶喜の処遇に関して、岡山藩への御預けに鬼気迫る渾身の嘆願をして撤回を訴えたと言われています。西郷は、この死をも辞さぬ覚悟の鉄舟の態度に驚嘆したと伝えられています。明治維新後は、静岡藩藩政補翼となり、清水次郎長とは意気投合し、彼の墓に「壮士之墓」と揮毫して与えています。明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い、西郷のたっての依頼により宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇の側近として仕えました。そして明治20年(1887)その功績により子爵に任ぜられました。
弘田龍太郎:高知県安芸市出身の作曲家。一絃琴の名手であった母親から、音楽的才能を受け継いだと言われている。明治43年(1910)東京音楽学校(現東京芸大:滝廉太郎より13年後輩)に入学し、本居長世に師事し、本居と宮城道雄が主宰する新日本音楽運動に参加し洋楽と邦楽の融合に取組みました。その後、鈴木三重吉の児童雑誌『赤い鳥』が創刊されると、これに参加し、北原白秋等と組んで多くの童謡を作曲しました。昭和3年(1928年)ドイツに留学し、ベルリン大学で作曲とピアノを学んだ。帰国後、東京音楽学校教授となるが、数年後、辞して作曲活動に専念しました。晩年は自らが創設した幼稚園の園長となり、放送講習会、リズム遊びの指導にあたり、1952年(昭和27年)60歳で死去しました。代表作に『鯉のぼり』『浜千鳥』『叱られて』『雀の学校』『春よこい』『靴が鳴る』『千曲川旅情のうた』などがある。
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24 谷中霊園
明治7(1875)年寛永寺と天王寺の寺領を整備してできた東京都の公共墓地。墓域は10万m2、墓碑は7000余に及ぶ。この霊園には、長谷川一夫、沢田正二郎、獅子文六、横山大観、渋沢榮一、鳩山一郎などの著名人が眠っている。霊園の中央に天王寺五重塔があったが昭和32年心中放火により焼失した。この五重塔は、寛永21(1644)年に建立されたが、目黒行人坂の大火で焼失し、寛政3(1791)年近江出身の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建されました。幸田露伴は小説「五重塔」で、棟梁を「のっそり十兵衛」として登場させ、金銭欲を持たず、貧しさに耐え、実入りの少ない仕事でも手を抜かない。この十兵衛が、いかにして棟梁になるのか? 五重塔を建て、世に認められる過程で生じる問題にどう対処していくのか? そのような時にどういう感情を持つのか?等、今も残る日本的精神の特徴を描いています。
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25 徳川慶喜
天保8年(1837)江戸・小石川の水戸藩邸にて第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれ、弘化4(1847)年一橋徳川家を継ぎました。のちに14代将軍家茂を補佐して将軍後見職に就任します。後見職時は常に京都にあって、公武合体策の推進で、朝廷との信頼関係強化に奔走し、元治元年(1864)の禁門の変では御所守備軍を指揮し、鷹司邸を占領した長州軍を自ら攻撃し、歴代の徳川将軍家の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結ぶという活躍も見せた。慶応2(1866)年12月、15代征夷大将軍に就任すると、陸・海軍総裁・会計・事務そして外国事務総裁職の設置、横須賀製鉄所建設、軍制改革、兵庫開港などを矢継ぎ早に行った。また、パリ万国博覧会参加や幕臣子弟の欧州留学を奨励するなど急速な改革を行い、幕府の勢力回復に努めた。しかし孝明天皇が崩御したのち倒幕を画策する薩長と討幕派公家の勢力が高まってくると、機先を制するように、慶応3(1868)年10月大政を奉還し、京から大阪城へ居を移した。翌年正月に鳥羽伏見の戦いを起して破れ、江戸に帰ってからはひたすら恭順謹慎に努め、後事を勝海舟に託し、無血開城による江戸城を明け渡しに至った。この事に関してはいろいろ説があるが、後年、慶喜は「あの時は、あのようにするしかなかった。幕府がどうとか薩長がどうとかいう問題ではなく、「日本の存立」のただ一念だった。外国が日本を狙っていることはわかっていたので、日本人同士が争うという愚かな行為だけは何が何でも避けたかった。」と子息に語ったと伝えられています。慶喜は、明治30年静岡から東京に移り、翌年明治天皇に謁見して朝廷と幕府の和解を行う。その後、貴族院議員も務め、大政奉還の功により、勲一等旭日大綬章を授与される。大正2(1913)年永眠。享年77歳。最長寿の将軍。
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26 ねぎし三平堂
「ドウモスイマセン」で知られた噺家 林家三平の記念館。三平が生まれ育った自宅3階が展示室になっている。書き留めた小話の原稿やカメラなど愛用品が並び、また原稿書きした机などが展示され、三平の落語やコマーシャルがビデオで流されている。
エピソード:1971年、立川談志が参議院選挙に立候補した時の応援演説は、「ご町内の皆様、おはようございます。林家三平がご挨拶にあがりました。奥さんどうもすいません、三平です。こうやったら笑って下さい(と、額にゲンコツをかざす)。皆さん、ここにいる圓歌さんは、十年に一人出るか出ないかという芸人です。この談志さんは五十年に一人。この私、三平は百年に一人の芸人と、文化放送の大友プロデューサーが言ってくれました。そして、こちらの円鏡さんは一年に一人という……」誰が立候補したのかわからないような無茶苦茶なものだったそうです。
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27 子規庵
俳人 正岡子規が明治27年(1894)2月〜35年9月、36歳で没するまで住んだ家です。ここは加賀藩下屋敷があったところで、子規は「加賀様を大家(おおや)にもって梅の花」と詠んでいます。ここでは俳誌「ホトトギス」や歌誌「アララギ」が刊行され、俳句や短歌の革新運動が展開されました。晩年の子規は寝たきりの状態でしたが、「歌よみに与(あた)ふる雪」を書き、その周囲には内藤鳴雪、高浜虚子、河東(かわひがし)碧梧桐(へきごとう)、中村不折、伊藤左千夫、長塚節(たかし)などが絶えず集まり、意気軒高たるものがありました。木造平屋造りの家と土蔵は戦災で焼失しましたが、昭和24年復元され、机、硯その他遺品が遺されています。
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28 根岸 庚申塔
庚申塔は江戸時代には各地に沢山造られました。60日に一度廻ってくる庚申の日には行いを慎しまないと神罰が当たるという信仰がありました。この日、三尸虫(さんしちゅう)となって体内に潜んでいる神の分神が、夜になると抜け出して、神にその人の罪状を報告に行くと言われました。それを防ぐために人々は集まり、酒宴や歌、俳諧などの会を、徹夜で行われました。その集まりが、のちに庚申講となって伊勢参りや大山参りなどに変化をしていきました。また、三尸虫が出るのを防ぐために帝釈天像や青面金剛像の絵を掲げるようになりましたが、やがて、それが石や塔にも刻まれるようになり、庚申塔となったのです。
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29 小野照崎神社
この神社の祭神は、百人一首で「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟」と詠んだ小野篁(たかむら)。篁は平安時代初期の屈指の書画に秀でていて、歌人としても優れ、法理にも明るく、そして政務能力もある万能人でした。身の丈は6尺を超える大男で、東国に下向した折、上野照崎の地(上野公園の一角)に留まり、里人たちを教化しました。里人らは彼を敬慕し、仁寿2年(852)小野篁が没すると、これを照崎の故地に祀って小野照崎大明神として建立しました。江戸期初期に、幕府が寛永寺を建立することになり、現社地に遷座を命じられて移転しました。関東大震災・東京大空襲の災禍を免れ、現在に至っている。また、当社は芸能の神としても知られ、歌舞伎、舞台俳優の信仰が篤く、渥美清は、当社を参拝したあと、「男はつらいよ」の大役を得たとのエピソードがあります。 境内には山岳信仰の象徴で天明年間(1781〜89)の築造された富士塚(下谷富士)があり、、国の重要文化財に指定されています。同様に三峰神社、御嶽神社も祭られていて、江戸時代の山岳信仰に応えています。稲荷社も勧請されていて商売繁盛の願いにも応える神社として参詣者が途絶えることがなく人気がある。
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30 入谷 鬼子母神
「おそれ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺、そうで有馬の水天宮、志ゃれの内のお祖師様、うそを築地の御門跡」と語呂合わせで言われてきた入谷鬼子母神は、仏立山真源寺と呼び、万治2年(1659)法華僧
日融が開山しました。雑司が谷の鬼子母神とともに出産、育児の神様として江戸市民に親しまれています。本尊は雑司が谷が立像なのに対し、当寺は座像。ここは朝顔市が有名で毎年7月6日〜8日の3日間は境内から参道、沿道に朝顔を売る店がならび東京の風物詩になっています。語呂合わせを詠んだのは江戸狂歌界の中心人物大田南畝。別名は蜀山人。彼は清廉な能吏として、御徒・支配勘定役などを歴任した幕府の役人でした。幕府の人材登用試験では首席で合格する秀才でした。田沼時代には、文人として才能を発揮して、狂歌・漢詩文・随筆などの活動が大目に見られていたが、寛政期になってから、改革に対する政治批判の狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなし
ぶんぶといひて夜もねられず」を詠んで、上司に目を付けられ、後に大阪銅座、長崎奉行所に転任させられているが、公務は淡々と務めたと伝えられている。
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