第24回 お江戸散策 吉原・浅草界隈 解説
1.入谷 鬼子母神
「おそれ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺、そうで有馬の水天宮、志ゃれ内のお祖師様、うそを築地の御門跡」と語呂合わせで言われてきた入谷鬼子母神は、仏立山 真源寺と呼び、万治2年(1659)法華僧 日融が開山しました。雑司が谷の鬼子母神とともに出産、育児の神様として江戸市民に親しまれています。本尊は雑司が谷が立像なのに対し、当寺は座像。ここは朝顔市が有名で毎年7月6日〜8日の3日間は境内から参道、沿道に朝顔を売る店がならび東京の風物詩になっています。語呂合わせを詠んだのは江戸狂歌界の中心人物大田南畝。別名は蜀山人。彼は清廉な能吏として、御徒・支配勘定役などを歴任した幕府の役人でした。幕府の人材登用試験では首席で合格する秀才でした。田沼時代には、文人として才能を発揮して、狂歌・漢詩文・随筆などの活動が大目に見られていたが、寛政期になってから、改革に対する政治批判の狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜もねられず」を詠んで、上司に目を付けられ、後に大阪銅座、長崎奉行所に転任させられたと云うがこの狂歌は別人との異論もある。彼は公務に関しては真面目、誠実で実務を淡々と務めたと伝えられている。
2. 小野照崎神社
この神社の祭神は、百人一首で「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟ぶね」と詠んだ小野篁。篁は法理(ほうり)に明るく、政務能力に優れているばかりでなく、漢詩文でも平安時代初期の屈指の詩人でした。小野篁は東国に下向した折、上野照崎の地(上野公園の一角)に留まり、里人たちを教化しました。里人らは彼を敬慕し、仁寿2年(852)小野篁が没すると、これを照崎の地に祀って小野照崎大明神と称しました。江戸期初期に、幕府が寛永寺を建立することになり、現社地に遷座を命じられて移転しました。江戸期、富士山を信仰・参拝する富士講が盛んになり、天明年間(1781〜89)当社境内に富士塚(下谷富士)築造され、多くの参拝客を集めた。現在も当時のまま残り、国の重要文化財に指定されています。
3.西徳寺
真宗佛光寺派の寺院。山号は光照山。歌舞伎役者中村勘三郎の菩提寺として知られる。18代目中村勘三郎(波野哲明)は歌舞伎役者としては江戸の世話物から上方狂言、時代物、新歌舞伎から新作など、幅広いジャンルの役柄に挑み続けたことで知られた。コクーン歌舞伎や平成中村座を立ち上げ、現代劇の劇作家、演出家らと組んで、古典歌舞伎の新解釈版や新作歌舞伎の上演に取り組んだり、地方巡業や海外公演も精力的に行うなど、その演劇活動は常に進取的であった。2013年4月には新生・歌舞伎座こけら落としを控え、今後の歌舞伎界の牽引役の一人と目されていたが2012年12月に急性呼吸窮迫症候群のため57歳で死去した。早すぎる死は梨園にとどまらず多方面から大変惜しまれた名優であった。勘三郎の葬儀は築地本願寺で本葬が営まれ、多くの芸能関係者ばかりでなく一般の弔問客など1万2000人が訪れたという。2013年11月27日、当西徳寺に於いて18世勘三郎の一周忌追善法要と納骨式が執り行われた。
4.鷲神社
浅草のお酉様で知られる。日本武尊が東国征伐の帰途、ここで熊手を掛けて戦勝を祝ったのが11月の酉の日で、以後この日を酉の市と定めたと云う。幸運や熊手を掻き込もうという縁起で、商売繁盛の神として信仰されている。江戸時代は近くに浅草寺、新吉原という盛り場を控えた地の利から多くの参詣者を集めた。蕉門十哲の一人 宝井其角は「春を待つ 事の始めや 酉の市」、高浜虚子は「人波に 押されて来るや 酉の市」と詠んでいる。
5.吉原弁財天
遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。池は現在の吉原電話局辺りにあり、ひょうたん池と呼ばれていた。大正12年の関東大震災では、囲い門のなかに閉じ込められた多くの遊女がこの池に逃れ、147人が焼死、溺死したという悲劇が起こった。弁天祠附近の築山に建つ大きな観音様は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。往時を偲ばせる「花吉原名残碑」とともに、遊郭での仕事が、どのようなものだったか。貧困な農民層が、生きるために、そこで生涯を閉じていったことが看板に書かれている。
6.正法院(飛不動)
享禄3年(1530)のこと。正法院の住職正山上人が、大和大峰山に本尊木造座像を持って修行に行ったところ、坐像が一夜にして正法院に飛び帰り、人々にご利益をもたらしたという。以来、本尊は飛不動と呼ばれ、一層の信仰を集めた。空を飛ぶ神様なので空の旅の安全祈願や「落ちない」ということで受験生の守り神として今日でも多くの参詣者が訪れる。また、境内の恵比寿神は下谷七福神1つとして信仰されている。10月10日の縁日には、近郊から菊の花が飾られ境内は菊の香りが漂う。
7. 樋口一葉旧居跡
樋口一葉は吉原茶屋通り大音寺前と云われたこの地に明治26年(1893)7月から、1年程住んだ。母と妹の三人暮らしで、吉原通いの客や近隣に住む町人たちに、荒物、駄菓子を売る小さな店を営みながら文筆活動をつづけ、その生活体験が、名作「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などの傑作を生んだ。1960年地元の人々によって、旧居跡の碑が建てられた。

8. 一葉記念館
明治の女流作家 樋口一葉の業績を保存、展示している記念館。24歳で亡くなるまでの生涯や代表作「たけくらべ」の草稿はじめ一葉の自筆原稿、朝日新聞の小説記者で師の半井桃水宛の書簡、衣類などの遺品、竜泉寺町旧居と周りの町並みの模型などが展示されている。記念館前の公園には、菊池寛の撰文、小島政二郎の補筆による樋口一葉記念碑が建っている。
   9. 吉原大門
江戸時代初期までこの附近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、人形町付近にあった吉原遊郭がこの地に移された。以来、昭和33年までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。この吉原へは、富裕層は柳橋から猪牙舟を仕立てて、隅田川を上り、吉原に通じる山谷堀を抜けて来た。一方、一般層は山谷堀に沿って築かれた日本堤の土手を歩くか駕籠で来た。舟は地方橋で降りて夜間であれば、岸辺の提灯屋(大島屋)で猫提灯を求めて夜道を歩いた。吉原遊郭へは外部から見られないようにS字に曲がった衣紋坂が造られ、ここを抜けると吉原大門に辿り着く。吉原遊郭で唯一の出入り口で、入口には不審者を見張る見番があった。吉原遊郭は、南北245m、東西355mの敷地に造られ、その周囲は遊女の逃亡を防ぐばかりでなく外部から犯罪者を侵入させない機能を果たしたお歯黒ドブと呼ばれる水路で囲まれていた。吉原には、約8,000人が暮らし、そのうち2,000人が遊女であったという。煌びやかな花魁、太夫が闊歩する別世界で、太夫の着飾った衣装を見たさに女性の見学者も多かったという。しかし、遊女の生活は過酷で、ろくな食事は取れず、医療設備も貧弱ななかでの生活で、乙女たちは自由もなく、廓の中で年季明けまで働いたという悲しい物語が多く伝わっている。
   10.見返り柳
 見返り柳は、土手通り吉原大門交差点にある柳の木です。土手通りは、浅草寺の北側にある待乳山聖天から浄閑寺などのある三ノ輪へ向かう通りで、かつて遊客が浅草から吉原へ向かう道に当たります。吉原遊郭で遊んだ客が吉原大門を出て、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったということから「見返り柳」と呼ばれていたといいます。かつては山谷掘脇の土手にあったものの、道路や区画の整理により当地に移され、また、震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられているといいます。
   11. 東禅寺
寛永元年(1624)に創建された曹洞宗寺院で、洞雲山東禅寺と云う。宝永3年(1706)江戸深川の地蔵坊正元は病気平癒を祈念して、幕府に発願し、江戸の6街道の出入口に1丈六尺(約2.7m)の地蔵菩薩坐像を造立した。江戸六地蔵である。奥州街道は第四番目に当たり、ここ東善寺に造立された。因みに、第一番は品川寺(東海道)、第二番 太宗寺(甲州街道)、第三番 真性寺(中山道)、第五番 霊厳寺(水戸街道)、第六番 永代寺(千葉街道)である。ただし、永代寺は明治元年に発令された神仏分離令により廃寺となり、地蔵座像も取り壊された。東善寺には、他に神田青物市場の符牒碑、日本麺麭祖由来を記した木村屋パンの始祖 木村安兵衛の墓がある。
   12. 春慶院
曹洞宗の寺院で霊厳寺の末寺。吉原の花魁、二代目高尾太夫の墓があることで知られる。高尾太夫は吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は十一人いたとも云われるが、いずれも三浦屋の抱え遊女であった。当院に眠る高尾太夫は、幾多の伝説巷談を生んだ二代目で仙台高尾とか万治高尾と云われた。仙台藩第三代藩主 伊達綱宗は天下普請で小石川堀治水工事に関わっている折り、気晴らしに吉原に繰り出したが、そこで出会ったのが二代目高尾太夫。美貌と書画音曲に優れた才媛にぞっこん惚れ込み、連夜通いつめる入れ込み様になった。当然のことながら、身請けの話しにまで進むが、高尾本人は首をたてに振らない。破格の身請け金を提示して、晴れて大名家に受け入れるという最高の優遇をして、何とか身請けした綱宗だが、その後も高尾自身の心は開く事はなかった。結局、いつまで経っても、心底、自分の物にならない高尾の態度に怒った綱宗は、隅田川の船上で、高尾を縛り上げて斬殺したと云う。この横暴三昧は幕府の知るところとなり、綱宗は21歳の若さで隠居させられ、わずか2歳の嫡男=綱村が第4代藩主となる。これが伊達騒動の始まりと云われる。また、巷説には伊達綱宗との仲は相愛の関係であったといい、高尾が綱宗に宛てた手紙の一節「忘れねばこそ、おもい出さず候」、「君はいまあたりはほととぎす」の句が伝えられ、高尾太夫の墓は輝宗侯の内命によって建てられたと伝わる。墓は細部にまで意匠を凝らした笠石塔婆で、戦災で亀裂が入り、一隅が欠けている。高さ1.5m、正面に紅葉文様を表し、楷書で戒名、命日 万治2年(1659)12月5日が刻まれ、右面には辞世、「寒風に もろくも朽つる 紅葉かな」と刻まれている。
13.九代目 市川 團十カ(1838年 - 1903年(明治36年)
明治時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。本名は堀越 秀。五代目 尾上菊五郎、初代 市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」を築いた。写実的な演出や史実に則した時代考証などで歌舞伎の近代化を図る一方、伝統的な江戸歌舞伎の荒事を整理して今日にまで伝わる多くの形を決定、歌舞伎を下世話な町人の娯楽から日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めることに尽力した。その数多い功績から「劇聖」と謳われた。また歌舞伎の世界で単に「九代目」というと、通常はこの九代目 市川團十郎のことをさす。