大河内松平家廟所

大河内松平家廟所
 大河内松平家は、第3代将軍徳川家光、第4代将軍徳川家綱に老中として仕え、川越藩主でもあった松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)によって興された一族。3,000坪の墓域に170基余りの墓石が配されます。墓石数、保存状態の良さとも全国有数の廟所です。大河内松平家廟所には松平伊豆守信綱夫妻の墓高さ2mの五輪塔が2基並び、信綱と信綱の正室の墓です。俳人高浜虚子は「知恵伊豆の墓に俳句が詣りけり」と詠んでいます。

松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)

徳川家康の家臣大河内久綱の長男として武蔵国に生まれた信綱は、幼少より偉才を発揮し 優れた政治的手腕を磨いて、第3代将軍家光に仕えて老中として重宝されました。家光の薨去(こうきょ)後も、家光の遺言で殉死せず、第4代将軍家綱の世で幕府老中職に精励して、幕藩体制の完成に大きく貢献しました。幕政下で生じた大事件、島原・天草の一揆を鎮圧、明暦の大火処理、そして川越藩主として玉川上水、野火止用水路の開削事業も行いました。 先見の明ある優れた手腕の数々は「知恵伊豆(ちえいず)」と称えられ、多くの逸話を残しています。

松平信綱と独立性易(どくりゅうしょうえき)

万暦24(1596)、中国に生まれた独立性易は儒学と医学に優れ、明朝に仕官した後、長崎に渡りました。黄檗宗の祖である隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師のもとで得度した独立禅師は隠元禅師に随待して江戸に登り、第4代将軍徳川家綱に謁見します。そこに同席していたのが、当時の幕府老中松平伊豆守信綱でした。儒者で、かつ医術を施し、能書としても高名であった独立禅師との出会いに、信綱は大いに感銘を受け、自身の菩提寺である平林寺を案内したと言われています。中国から渡来した黄檗派僧侶の書風は、当時一般的だった和様(わよう)に対し唐様(からよう)と呼ばれました。唐様の書は、日本の儒者や文人等の知識階級に受け入れられ、日本での本格的な書の成立に、大きな影響を与えました。

松平信綱の逸話

家綱時代
  慶安4年(1651)4月の家光没後はその息子で第4代将軍となった徳川家綱の補佐に当たり、家光没後の直後に起こった慶安の変(由井正雪の乱)を7月に鎮圧した。承応元年(1652)9月に老中暗殺を目的とした承応の変も鎮圧しました。明暦3年(1657)1月の明暦の大火などの対応にも務めました。

慶安の変:江戸時代前期の軍学者である由井正雪が数千人の浪人とともに起こした反乱であり、主な首謀者は由井正雪、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義であった。由井正雪は、数千人の浪人を集めて将軍を拉致らちし、幕閣を殺害して天下の権力を握ろうと野心を抱いた。この陰謀は事前に発覚して未遂に終わったが、大名家の改易や浪人対策など幕府の政策を大きく変更させる影響(武断→文治)を与えました。

承応の変:浪人で軍学者の戸次(べっき)庄左衛門らが、崇源院(徳川秀忠の正妻於江)の27回忌が増上寺で営まれるのを利用し、放火して金品を奪い、幕府老中たちを討ち取ろうと計画した事件。

才智と評価
家光は「いにしへよりあまたの将軍ありといへども、我ほど果報の者はあるまじ。右の手は讃岐(酒井忠勝)、左の手には伊豆」と評し、忠勝と信綱が幕府の確立に大きく寄与したことを評価している。また「伊豆守のごとき者を今1人持ったならば心配は無いのだが」と小姓の三好政盛に語っている。柳生宗矩も春日局と共に家光を支えた「鼎(かなえ)の脚」の1人に数えられた。酒井忠勝阿部忠秋に「信綱とは決して知恵比べをしてはならない。あれは人間と申すものではない」と評している。阿部忠秋は「何事にもよらず信綱が言うことは速い。自分などは後言いで、料簡が無いわけではないが、2つ3つのうちいずれにしようかと決断しかねているうち、信綱の申すことは料簡のうちにある」とその才智を認めている。行政では民政を得意としており、幕藩体制は信綱の時代に完全に固められたと言ってよい。また、慶安の変や明暦の大火などでの善処でも有名で、政治の天才とも言える才能を持っていた。幕政ばかりではなく藩政の確立・発展にも大きく寄与しており、川越を小江戸と称されるまでに発展させる基礎を築き上げた。信綱は現在でも川越市民に最も記憶されている藩主である。政治の取り締まりに関して信綱は「重箱を摺子木すりこぎで洗うようなのがよい。摺子木では隅々まで洗えず、隅々まで取り締まれば、よい結果は生まれないからである」と述べている。それに対してある人が「世の禁制は3日で変わってしまうことが多い」と嘆いていると「それは2日でも多いのだ」と言ったという。ただしこれだけ多くの人々に評価されていながら、人望は今ひとつで「才あれど徳はなし」と評されてもいる。老中首座時代には同僚であった堀田正盛の子・堀田正信にその幕政を批判されてもいる。これは信綱が茶の湯や歌会、舞、碁、将棋などを好まず、生真面目に政務を行なっていたためともいわれている。また信綱は下戸で酒を嗜まなかったといわれており、ここにも一因している。信綱の好きなことは暇なときに心を許した者を集めて政治などの話を問答することだったという。
明暦の大火の際、信綱は老中首座の権限を強行して1人で松平光長ら17人の大名の参勤を免除しました。紀州藩主徳川頼宣は信綱が勝手に決めたことを非難したが、「このようなことを議すると、何かと長談義に日を費やし無益むえきです。後日お咎とがめあれば自分1人の落度にしようとの覚悟で取り計らいました。今度の大災害で諸大名の邸宅も類焼して居場所も無く、府内の米蔵も焼けました。このようなときに大名が大勢の人数で在府すれば食物に事欠き、飢民きみんも多くなるでしょう。よって江戸の人口を減少させて民たみを救う一端となります。万一この機に乗じ逆意の徒やからがあっても、江戸で騒動を起こされるより地方で起こせば防ぐ方策もあろうかとこのように致しました」と述べた。頼宣は手を打って感嘆したという。ちなみに飢民救済のため、信綱は米相場高騰を見越して幕府の金を旗本らに時価の倍の救済金を渡した。そのため江戸で大きな利益を得られると地方の商人が米を江戸に送ってきたため、幕府が直接に商人から必要数の米を買い付けて府内に送るより府内は米が充満して米価も下がったという。

暦の大火の時、大奥女中らは表御殿の様子がわからず出口を見失って大事に至らないように信綱は畳一畳分を道敷みちふとして裏返しに敷かせて退路の目印とし、その後に大奥御殿に入って「将軍家(家綱)は西の丸に渡御された故、諸道具は捨て置いて裏返した畳の通りに退出されよ」と下知して大奥女中を無事に避難させました。

慶安の変のとき丸橋忠弥を捕縛する際、丸橋が槍の名手であることから捕り手に多数の死者が出ることを恐れた信綱は策を授けた。丸橋の宿所の外で夜中に「火事だ」と叫ばせた。驚いた丸橋が様子を見ようとして宿所の二階に上ってくると、その虚をついて捕り手が宿所内に押し寄せて丸橋を捕らえたという。

信綱の忠義 慶安4年(1651)の家光の死の際に殉死しなかったことを江戸市民は非難し、「伊豆まめは、豆腐にしてはよけれども、役に立たぬは切らずなりけり」と皮肉ったという。ただし信綱が殉死しなかったのは、家綱の補佐を家光から委託されていたためであり、信綱は「二君にまみえず」とは違う。家中に仕えることを指しており、先代に御恩を蒙こうむっている者が皆殉死したら誰が徳川家を支えるのかと反論している。

甲州流軍学を教える小幡景憲(かげのり)と学問の話をしたとき、信綱武田信玄は名将であっても、終ついに天下を取る人ではなかった。よって信玄の兵法を習うより、古今の名将である家康公の御武略を聞き、四書五経を代々の御法度と思って学ぶ方が身の徳と成るべし」と言った。

家光小姓の時代のとき、他の小姓は務めをさぼりがちだったが、信綱は常に詰所にあって主君の御用に間に合わないことは無かったという。家光が竹千代と名乗っていた頃、将軍の秀忠の寝殿の軒端でスズメが巣を作り、子がかえった。当時は11歳だった三十郎こと信綱家光から「巣を取って参いれ」と申し付けられたので、日が暮れてから寝殿の軒に忍んだ。ところが巣を取るとき、誤って足を踏み外して中庭に落ちてしまい、寝殿にいた秀忠に気づかれてしまった。秀忠は刀を手にして「誰の命令でここに来た?」と問い詰めたが信綱は「自分がスズメの巣が欲しかっただけでございます」と答えるのみであった。秀忠は誰の命令か察しが付いていたが強情な信綱を見て、「年齢に似ず不敵な奴だ」と信綱を大きな袋に入れて口を封じて縛りつけた。秀忠の正室で家光の生母である於江(おごう)も事情を察して、夜が明けると侍女に命じて密かに信綱に朝食を与えた。昼に秀忠は再び誰の命令か言うように問い詰めたが、信綱は前と同じように答えるだけだった。秀忠はその態度を見て怒るどころか今後を戒めた上で解放した。のちに秀忠は於江に向かって「(信綱が)今のまま成長したら、竹千代の並びなき忠臣となるだろう」と言って喜んだという
 
 島原・天草の一揆
 寛永14年(1637)10月末に肥前国島原や肥後国天草郡などでキリシタン一揆が発生しました。松平信綱ら首脳陣は当初、板倉重昌石谷貞清を派遣し、さらに日根野吉明鍋島勝茂寺沢堅高松倉勝家ら九州の諸大名に鎮圧と加勢を命じました。しかし一揆勢は原城に立て籠もって抗戦し、戦闘は長期化しました。当初、幕府軍の総大将は板倉重昌であり、信綱は戸田氏鉄と共に一揆鎮圧後のお仕置、つまり一揆が鎮定してのちの処分を断裁するために派遣されることになっていました。しかし、寛永15年(1638)1月1日に重昌が戦死し、石谷貞清も重傷を負ったため、代わって信綱が幕府軍の総大将に就任することになりました。1月11日には篭城する一揆軍に対してオランダ船のデ・ライブ号に要請して援護射撃をさせました。 1月28日に副将格の戸田氏鉄が負傷するなど一揆の抵抗も激しく、信綱は立花宗茂、水野勝成、黒田一成ら戦陣経験がある老将達と軍議を行い兵糧攻めに持ち込みました。この結果、2月下旬には一揆の兵糧がほぼ尽きてしまい、2月28日までに原城を陥落させました。信綱は一揆の総大将である天草四郎の首実検を行い、さらし首としました。このとき信綱の家臣6名も戦死し、手負い傷兵は、103名もありました。3月1日には原城を破却して捕らえた者は斬首して晒(さら)しました。またこの一揆を起こさせた責任重大として島原藩主・松倉勝家斬首刑に、唐津藩主・寺沢堅高には4万石を減俸にする重処罰を言い渡しました。