松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)
徳川家康の家臣大河内久綱の長男として武蔵国に生まれた信綱は、幼少より偉才を発揮し 優れた政治的手腕を磨いて、第3代将軍家光に仕えて老中として重宝されました。家光の薨去(こうきょ)後も、家光の遺言で殉死せず、第4代将軍家綱の世で幕府老中職に精励して、幕藩体制の完成に大きく貢献しました。幕政下で生じた大事件、島原・天草の一揆を鎮圧、明暦の大火処理、そして川越藩主として玉川上水、野火止用水路の開削事業も行いました。 先見の明ある優れた手腕の数々は「知恵伊豆(ちえいず)」と称えられ、多くの逸話を残しています。
松平信綱と独立性易(どくりゅうしょうえき)
万暦24年(1596)、中国に生まれた独立性易は儒学と医学に優れ、明朝に仕官した後、長崎に渡りました。黄檗宗の祖である隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師のもとで得度した独立禅師は隠元禅師に随待して江戸に登り、第4代将軍徳川家綱に謁見します。そこに同席していたのが、当時の幕府老中松平伊豆守信綱でした。儒者で、かつ医術を施し、能書としても高名であった独立禅師との出会いに、信綱は大いに感銘を受け、自身の菩提寺である平林寺を案内したと言われています。中国から渡来した黄檗派僧侶の書風は、当時一般的だった和様(わよう)に対し唐様(からよう)と呼ばれました。唐様の書は、日本の儒者や文人等の知識階級に受け入れられ、日本での本格的な書の成立に、大きな影響を与えました。
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