付録
 NHK大河ドラマ べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺 で起きた事件や登場人物について解説します
「江戸時代の通貨」

江戸時代の通貨は、当初は「金1両=銀50匁=銭4貫文」が公式レートとなっていた。だが実際には、主として江戸など東日本では金、大坂など西日本では銀を中心に取引され、金と銀の交換レートは日々変動していた。趨勢としては金高・銀安の傾向が続き、元禄時代に公式レートが「金1両=銀60匁」に改定されたが、それも一つの目安であり、銀はさらに安くなることも多かった。だが商品経済の発展によって経済圏が全国単一化するにつれて、こうした各通貨がバラバラな状態は、弊害が目立つようになっていた。そこで幕府はまず、明和2年(1765)に明和五匁銀の鋳造を開始した。その特徴は、表面に「銀五匁」と表記されたことだ。それまでの江戸時代の銀貨にはその単位価値が表記されておらず、重量(量目)によって価値が決まる秤量銀貨であったが、ここに初めて単位価値が明記されたのです。これは計数貨幣と呼ばれる。これにより、五匁銀12枚で金1両とし、「金1両=銀60匁」という公式レート通りに金貨と連動させたのでした。

「一両小判との交換数値を刻んだ新しい銀貨「南鐐二朱銀」を鋳造
田沼時代には米遣い経済社会というより貨幣経済社会に移行していた。このような時代の要求に応えるものとして打ち出されたのが、通貨銀を通貨金に直接的に連動させた明和五匁銀であった」と、その意義を強調している。ところがこれに両替商たちが強く反発した。彼らは金と銀の交換レートの変動を利用して利ザヤを稼いでいたからだ。このため明和五匁銀はほとんど流通しなかった。しかし意次はあきらめなかった。

その7年後の明和9年、今度は南鐐二朱銀という新たな銀貨を発行した。その表面には「以南鐐八片換小判一両」、すなわち南鐐二朱銀8枚で小判(金)1両に交換すると刻印が打たれている。当時、二朱判という金貨が流通しており、その8枚が小判1枚(1両)に相当した。したがって南鐐二朱銀に、金貨である二朱判と全く同じ価値を持たせたのだ。しかも、「朱」は金貨の通貨単位であり、それを銀貨の名称に使い通貨の一元化をさらに前進させたのでした。

 将軍家と系譜の相関関係

松平定信と一橋治済は従兄弟同士 
八代将軍・徳川吉宗の
次男・宗武を祖とする「田安家」四男・宗尹を祖とする「一橋家」九代将軍・徳川家重(吉宗の長男)の次男・重好を祖とする「清水家」この徳川将軍家一門の三家を「御三卿三巢」といい、松平定信は田安家の初代当主・宗武の七男、一橋治済は一橋家の初代・宗尹の四男です。 つまり、松平定信も一橋治済も八代将軍・徳川吉宗の孫で、二人は従兄弟同士となります。

年齢は松平定信が宝暦8年(1758)生まれ、一橋治済が宝暦元年(1751)生まれなので、一橋治済が7歳年上です。ちなみに、
蔦重は寛延3年(1750)生まれなので、平定信は蔦重より8歳年下、一橋治済は1歳年下となります。

松平定信は安永3年(17743月、17歳の時に、白河藩の藩主である久松松平家の当主・松平定邦の養子に迎えられることが決まりました。
天明3年(178310月、26歳の時には松平家の家督を継ぎ、白河藩主の座に就いています。この頃、ドラマでも描かれた火山の噴火、洪水、天候不順などによる大凶作から、「天明の飢饉」 と称される大飢饉に見舞われますが、松平定信の迅速な飢饉対策により、彼の領内では直接の餓死者は最低限に抑えられたといい、名君としての評判が高まりました。一方、一橋治済は天明6年(1786825日に十代将軍・徳川家治が死去し、翌天明7年(17874月、  治済の子で家治の養子となっていた一橋家の家斉が、15歳で第11代将軍の座に就いたことにより、「将軍の父」としての立場を手に入れました。松平定信は、この一橋治済と、尾張、紀伊、水戸の徳川御三家に擁立され、同年6月、30歳で老中首座(老中の最上位)に就き、天明8年(17883月に将軍補佐に任命されています。

 異例の老中就任

 老中は特定の家から何代にもわたって就任するケースが多く見られ、定信のように、老中はもちろんのこと幕府の重職にも就いた者がいない家から老中が出るのは異例のことでした。また、定信のように幕府の役職に就いた経験もないまま、いきなり老中に、しかも首座に就任するのも極めて異例であり、定信の老中首座就任は異例づくめだったのです。定信がこのような異例の抜擢を受けたのは、本人の能力はもちろんのこと、一橋治済と御三家の後ろ盾があったからだといいます。そのため、一橋治済は御三家の当主とともに人事や政策などの重要事項の実施について、定信から意見を求められるようになりました。絶対的な権力と権限を手に入れた松平定信は、ドラマでも描かれているように、改革を推し進めていきますが、やがて一橋治済との間に溝が生まれてきます。

「大御所問題」

寛政元年(17899月、一橋治済松平定信に対し、治済の実兄である福井藩主・松平重富の官位昇進を請願しました。ところが、松平定信は、御三家尾張藩主・徳川宗睦と、水戸藩主・徳川治保とともに、これに反対しています。更に、十一代将軍・徳川家斉は実父・治済を、将軍経験者でもないのに大御所(前将軍)として江戸城の西丸に迎えたいと望みました。しかしながら、これについても松平定信は反対します。これは「大御所問題」と呼ばれています。 松平定信は、寛政5年(1793)年7月、依願辞任(良好な関係を維持しながら雇用契約を終了させること) の形をとって将軍補佐と老中職を解任されました。老中の在職期間は6年でした。松平定信解任の背景には上記の大御所問題と、以下に述べる「尊号一件」があったと考えられています。

 「尊号事件」

尊号事件とは、寛政元年(1789)に起きた、光格天皇17711840、在位17801817)が実父の閑院宮典仁親王に、太上天皇(譲位した後の天皇)の尊号を贈ろうとしたところ幕府(松平定信)に反対され、朝廷と幕府の関係が一時悪化した事件です。ドラマの第37回で、松平定信一橋治済の間で話されていたのはこの件です。光格天皇は安永7年(1779)に、先の天皇である後桃園天皇が急死した際に跡継ぎがいなかったため、急遽、後桃園天皇の養子となり、即位しました。光格天皇の実父・典仁親王は天皇になっていないため、太上天皇の称号を贈るのはおかしいと、松平定信は強く反対したのです。これは将軍経験者でない実父・一橋治済を大御所にしたいと望んだ第11代将軍・徳川家斉への牽制だったともいわれています。徳川家斉も、もう21歳の青年に成長していたこともあり、意に沿わない松平定信は解任されたのではないかと見られています。