第1回 横浜散歩 山の手・山下公園 解説版
  【横浜
 横浜の地名の起源は、室町時代末期、本牧に続く「海を横切る浜」と呼ばれた砂州上に村があったことに由来していると伝えられています。当時の戸数は、わずか12戸の寒村であったようです。数百年後の江戸の末期、6年(1853)でも戸数は100戸あまりの小さな漁村でしたが、同年米艦隊ペリー提督が浦賀に来たことで状況は一変してきました。5年後の日米通商条約に基づき安政5年(1859)年62日に開港した横浜は、荷揚げされる外国製品とやって来た外国人に触れられることによって、急速に西洋文明を吸収し、わが国近代文明の発祥地として飛躍的に発展していきました。明治以降、文明開化の先駆的都市として整備され、市内各所に見られるエキゾチックな港湾風景、高台に並ぶの洋館、重厚な洋式建築そして、これらの偉大な足跡を残した「異人」たちの墓碑なども作られました。大正12年の関東大震災の影響で、多くの近代化遺産が倒壊しましたが、開港150年祭を機会に当時の貴重な遺産が修復・復元されて、横浜の魅力をかせております。
1.イタリア山庭園
 「山手イタリア山庭園」がある。1880年(明治13年)から1886年(明治19年)にかけてこの場所にイタリア領事館があったことから、「イタリア山」と呼ばれるようになり、公園の名の由来となった。「山手イタリア山庭園」はその名のように西洋庭園風に仕立てられており、またその敷地内には「外交官の家」や「ブラフ18番館」などの洋館も移築されている。

 2.外交官の家
 外交官の家は明治から大正にかけての外交官だった内田定槌(さだつち)の私邸として建てられたもので、渋谷区にあったものをここに移築したものです。アメリカ人ガーディナーの設計によるという「アメリカン・ビクトリア様式」の建物は「山手イタリア山庭園」によく似合って馴染んでいて、美しい調和をかもし出しています。室内の佇(たたず)まいや家具、調度品の様子などから明治期の外交官の暮らしぶりを思い描けます。
 3.ブラフ18番館
 ブラフ18番館は関東大震災後に外国人住宅として建てられ、戦後はカトリック山手教会の司祭館として使用されてきたものを移築したものだ。大正期の外国人住宅の特徴を残した建築で、木立に包まれて、童話の世界の家のような佇(たたず)まいを感じさせてくれています。


 4.カトリック山手教会
文久元年12月13日(1862年1月12日)、パリ外国宣教会が居留地80番に建てた横浜天主堂が、開港後の日本で初めてのキリスト教会堂です。マリア像を載せたポーチをイオニア式オーダーが支え、ペディメント等の古典様式の味付けがなされたものでした。ところが、その煉瓦造教会の寿命は短く、大正12年の関東大震災によって完全に崩壊してしまい、昭和8年、この地に再建されたものです。尖塔アーチの窓に背の高い鐘塔を持った、典型的なゴシック様式の教会建築ですが、内部には細かな装飾が施された列柱などを備え、この山手カトリック教会は、日本一美しい聖堂とも呼ばれています。

5.フェリス女学院大学
 1869年(明治2年)に改革派教会の宣教師として生涯を伝道と教育事業に捧げたメアリー・キダーによって設立された。開学当時は「キダーさんの学校」と呼ばれていたが、1875年米国改革派教会 伝道局総主事フェリスの名をとって「フェリス・セミナリー」と名づけられたのが大学名の由来。同女学院大学は、プロテスタントを教育の基本精神とする大学であって、世界人類の福祉と平和的発展に貢献する、有能かつ教養豊かな女性を育成し、女性の地位の向上に大きな役割を果たすことを理念としています。
 
 6.山手公園
 山手公園は、明治3年(1870)は横浜居留地の外国人レクレーションの場として作られました。明治11年(1878)レディースローンテニスアンドクロッケー現在の横浜インターナショナルテニスクラブが、この地に5面のコートが建設されました。この地は日本のテニス発祥の地と言われ、平成10年(1998)5月、日本で最初のテニスクラブが誕生したことを記念して建てられた記念館は外観がバンガロー風木造2階建てで、内部の展示室にはラケット以前の皮手袋・バンブーラケット・最も古いテニス道具一式など希少価値の高いものが数多く展示され、パネルによる日本のテニス文化が紹介されています

 7.妙香寺
 妙香寺は弘仁5年(814)に創建され真言宗本牧山東海寺と呼ばれていました。宗文永元年(1264)日蓮宗に改宗し蓮昌山妙香寺となりました。同寺は君が代由緒地と言われています。明治2年(1869)明治政府は妙香寺に滞在していた英国歩兵隊軍楽隊長だったイギリス人フェントンの元に、薩摩や長州藩の30余人を派遣して軍楽隊の訓練を依頼しました。これが日本の吹奏楽の始まりと言われています。のちに陸軍元帥となった大山巌がフェントンから外交儀礼上から国歌の必要性の進言を受け、国歌を制定することとなりました。歌詞は、大山巌が平安時代に詠まれた和歌を基に選び、フェントンが作曲して、明治3年9月越中島における天覧調練のときに初めて薩摩(さつま)の軍楽隊が演奏しました。しかし、この「君が代」は旋律が日本語の歌詞と合わず、歌いにくく、明治9年に廃止されました。その後、国歌改訂版が海軍から提唱され、明治13年雅楽調の旋律で林廣守が作曲したものを、海軍軍楽隊雇いのドイツ人エッケルトが編曲して公表されたのが現在の「君が代」と言われています。

 8.麒麟麦酒開源記念碑
 1870(明治3)年、アメリカ人ウイリアム・コープランドは横浜・山手にビール醸造所スプリング・バレー・ブルワリーを設立し、日本で初めて産業として継続的にビールの醸造・販売を行いました。コープランドはその功績から、「日本のビール産業の祖」と呼ばれています。1885(明治18)年、スプリング・バレー・ブルワリーの建物と土地は、日本在住の外国人経営の会社ジャパン・ブルワリーに引き継がれ、1888(明治21)年に「キリンビール」が発売されました。そして、1907(明治40)年、ジャパン・ブルワリーの事業を引き継ぎ麒麟麦酒株式会社が創立。1923(大正12)年の関東大地震まで、この公園および北方小学校の敷地においてビールを醸造しました。石碑はこの地がキリンビール発祥の地であることを記念して、1937(昭和12)年に設立されたものです。

 9.ベーリックホール
 イギリス人貿易商B.R.ベーリック氏の邸宅としてJ.H.モーガンの設計により、昭和5年(1990)建てられました。スパニッシュスタイルを基調とし、戦前の西洋館としては最大規模を誇る建築学的にも価値のある建物です。


10.エリスマン邸
 日本の建築界に大きな影響を与え、「現代建築の父」と呼ばれたA.レーモンドの設計。横浜の大きな生糸貿易商シーベルヘグナー商会の支配人であったエリスマン氏の私邸として、大正15年(1926)に山手127番地に建設されました。現在の地には、平成2年(1990)に移築復元されました。


 
11.ジェラール瓦と水屋敷
 明治初期、元町公園にあるプールの地からは水質が良い水が湧き出ていました。フランス人アルフレッド・ジェラールは横浜港に停泊している船舶への給水業を行うためレンガづくりの貯水槽を建設しました。この水はインド洋に行っても腐らないと評判になりました。ここは水屋敷と言う風に言われ始めましたが、給水業だけでなく西洋瓦や、レンガ工場、軍用日用品供給業、肉屋などを居留地で営み始めていきました。水屋敷の貯水槽については、今日でも元町プールの入口付近に残されており、貯水槽からは比較的冷たい水が湧き出ます。また、レンガ工場は1923年(大正12年)の関東大震災による崖崩れで倒壊してしまいましたが、後に、工場のあったところにプール管理棟が建てられました。その建築材料はジェラールが造っていた西洋瓦と同じものを使い、デザインはレンガ工場をイメージして建てられたので、当時の面影が見受けられます。
 
 12.山の手外人墓地
 1854年(嘉永7年)ペリーが開国交渉のために再来日した時に、ミシシッピー号の乗組員ロバート・ウィリアムズという24歳の二等水兵が墜死した。この水兵の埋葬地と共にアメリカ人用の墓地を「海の見える地」を条件に、ペリーは幕府に要求した。幕府は横浜村の増徳院の境内の一部を提供しウィリアムズはここに埋葬された。これが横浜山手の外国人墓地の始まりとなった。関東大震災で増徳院は倒壊し移転して境内全域が外国人墓地になった。現在、22区5600坪(約18,500㎡)の墓域となった。墓石数は2500程度となっている。
13.岩崎博物館  ゲーテ座
 ゲーテ座は1885(明治18)年にシェークスピアの『ハムレット』などの演劇を西洋人による生の西洋演劇が楽しめる劇場として建てられました。当時の観客は主に外国人でしたが、日本の近代演劇史に足跡を残した小山内薫・北村透谷そして芥川龍之介らが足茂く通った劇場でもあります。ゲーテとは「Gaiety=陽気な」の意味です。1923(大正12)年、関東大震災によって ゲーテ座の建物は崩壊しましたが、1980(昭和55) 年この地を買い取った岩崎学園により服飾関係の資料、収集品を中心に展示する博物館としてここ山手の丘に建設されました。館内にはゲーテ座にまつわる資料や古代エジプトから現代までの衣裳、服飾装飾品、ブロンズ像その他アールヌーヴォー、デコの時代に於けるファッションおよび装飾やガラス工芸品などが展示されています。
 
14.イギリス館
 昭和12年(1937)にイギリス領事館公邸として建築された建物で近代主義を基調としたモダンな形と伝統を加味(かみ)した重厚な美しさは、当時の大英帝国の風格(ふうかく)をよく表しています。昭和44年(1969)横浜市が買取り、平成2年(1990)年横浜市指定文化財になりました。
 

 15.大佛(おさらぎ)次郎
 横浜市に生まれ、東大学法学部を卒業後、鎌倉高等女学校教師となった。ついで外務省嘱託となり、この時に小説、翻訳、翻案を書き、関東大震災後に退職して小説家の道に進んだ。小説『隼の源次』を発表するときに初めて「大佛次郎」のペンネームを使い、以後これが終生彼のペンネームとなった。これは当時彼が鎌倉市長谷大仏の裏手に住んでいたことに由来し、鎌倉の邸宅は大佛茶廊として保存されている。鎌倉の貴重な自然と歴史的環境は市民自らの手で守らなければならないと主張し、小林秀雄、今日出海、川端康成、横山隆一、伊東深水などの著名文化人と幅広い市民の協力を得て、(財)鎌倉風致保存会を設立した。1964年に文化勲章受章。主な作品は『鞍馬天狗』『赤穂浪士』『ドレフュス事件』『帰郷』などがある。
16.港の見える丘公園
 ここはかつて横浜開港期にイギリスとフランスの軍隊が駐屯した場所でした。横浜開港と同時に横浜に多くの外国人が暮らすようになると、当然のように日本人との間にトラブルも発生するようになりました。生麦事件の例にあるように、外国人に対する傷害事件も少なくなく、居留地襲撃の噂(うわさ)さえありました。そうした状況の中で自国居留民の安全と財産を守るためという名目で横浜港を一望する高台に軍隊が駐留されるようになりました。現在の公園中心部あたりに駐屯したイギリス軍と、現在の「フランス山」に駐屯したフランス軍とが隣り合って居住したこの地は当時軍事的に大きな意味を持っていた場所でした。 戦後、この場所は米軍に接収されましたが、接収解除後に公園用地として取得、1962年(昭和37年)に「港の見える丘公園」として開園しました。後にフランス領事館が置かれていた跡地を「フランス山」区域として公園に併合、イギリス総領事官邸はイギリス館として開館しました。
 
 17.フランス領事館跡
 幕末時代から明治時代までフランス軍が駐屯していた場所としてフランス山と名付け、1896年(明治29年)フランス人建築家サルダによりフランス領事官邸が建設された。「極東一のすばらしい名建築のひとつ」言われ、外観からも煉瓦造り二階建ての建物は華麗な意匠の堂々としたものだった。だが領事官邸は、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊してしまった。その後、再建されたが、1947年(昭和22年)の不審火により全面焼失してしまった。現在のフランス領事館は場所を転々として、南麻布の天源寺にある。フランス領事館遺構の傍に風車が建っているが、これはまだフランス領事館が建っていた頃に井戸水を汲み上げるために用いられたものである。当時の山手はまだ上水道が出来ていなく、経済面のことを考え井戸水汲み上げ用の風車が出来たとされる。
 18.ジェームス・ヘボン博士邸宅跡
 1859年(安政6年)に米国からやってきた医者であり、プロテスタントの宣教師でした。来日時は成仏寺を宿舎にしていましたが、 1862年(文久2年)に横浜のこの地に転居し、幕末から明治初期の日本文化の発展に大いに貢献しました。医学面では、西洋目薬の製法を伝授したり、脱疽(だっそ)の治療を行って義足の普及にも貢献しています。彼は診療を通して、日本と日本人を知り、親しくなろうとしました。明治期に入りキリスト教の布教が許され、そのために日本語を勉強しながら作ったのが、日本で最初の和英辞書「和英語林集成」で、そして綴るために作られたのがヘボン式ローマ字です。辞書は、日本語を学びたい外国人にも、英語を学びたい日本人にも広く使われました。博士はほかにも、日本人向けの英語塾を作り、その女子部を同僚の宣教師メアリーキダーが独立して作られた洋学塾がフェリス学院の母体です。1887年(明治20年)、ヘボンは私財を投じて港区白金に明治学院を創立し初代総理に就任。1892年帰国し、1905年日本政府から勲三等旭日章が贈られました。
 19.山下公園
 横浜の観光の中心、横浜の「顔」ともいうべき山下公園は大桟橋の入口から山下埠頭までのおよそ1キロメートルの長さで海岸に面しており、面積は約7万m2を有しています。1923年(大正12年)の関東大震災は、横浜の市街、横浜港にも壊滅的な被害を齎(もたら)したが、1925年(大正14年)に横浜市長により復興事業が強力に推し進められ、震災被害の瓦礫や焼土を埋め立てて造成されました。震災から7年後、日本最初の臨海公園として開園しました。1935年(昭和10年)には震災からの復興を祝う復興博覧会が盛大に行われ、数々の展示物が建ち並び、現在は低床花壇に姿を変えている舟溜まりにはクジラが入れられたりして、大いに賑わったのだといわれています。 戦後は米軍によって接収されましたが、1954年(昭和29年)に返還されてから、整備・改良を経て、1961年(昭和36年)には整備が完了しほぼ現在の姿となりました。園内には「赤い靴履いてた女の子像」や、姉妹都市のサンディエゴから贈られた「水の守護神の像」などがあります。
 20. 赤い靴の女の子
 女の子の名は「岩崎きみ」。明治35年日本平の麓、現在の静岡市清水区で生まれました。きみちゃんは赤ちゃんのとき、いろいろな事情で母親「岩崎かよ」に連れられて北海道に渡ります。母親に再婚の話がもちあがり、かよは夫の鈴木志郎と開拓農場に入植することになります。当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、岩崎かよはやむなく三歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。岩崎かよは、夫と開拓農場で懸命に働きますが、開拓小屋の火事などがあり、努力の甲斐なく失意のうちに札幌に引き上げます。 明治40年のことでした。いかなかったのです。母かよは、死ぬまできみちゃんはヒュエット夫妻とアメリカに渡り、幸せに元気に暮らしていると信じていました。しかし、意外な事実がわかったのです。きみちゃんは異人さんに連れられて船に乗らなかったのです。ヒュエット夫妻が任務を終え帰国しようとしたとき、きみちゃんは不幸にも結核に冒され、身体の衰弱がひどく長い船旅が出来ず、麻布永坂にあった鳥居坂教会の孤児院に預けられたのです。薬石の効無く一人寂しく幸薄い9歳の生涯を閉じたのは、明治44年9月15日の夜でした。きみちゃんが亡くなった孤児院は関東大震災で倒壊し、現在ありませんが、きみちゃんは、現在青山墓地で眠っています。また、作詞者 野口雨情は明治41年に長女を生後7日で亡くしていました。そんな失意のなかで、岩崎きみちゃんの話を友人から伝え聞いて、詩を書き、本居長世が曲を付けてできたのがこの曲です。