第1回 川崎散歩 アジサイ寺と泉田二君をたずねて 解説班
 二ヶ領用水は多摩川を水源とし、多摩川右岸の神奈川県川崎市多摩区から川崎市幸区までを流れる、全長約32kmに及ぶ人工の用水路です。 徳川家康の命により、用水奉行・小泉次大夫(こいずみじだゆう)が慶長2年(1597)に工事着手しました。地域の農民たちの協力も得て、14年の歳月をかけて慶長16年(1611)に完成しました。江戸近郊の治水と新田開発が、家康の権力基盤を支える最重要課題のひとつだったのです。 二ヶ領用水の歴史は古く、工事に着手したのは天下分け目の関が原の合戦(1600年)よりも3年も前のことでした。まだ、江戸幕府が確立される以前のことです。二ヶ領用水の完成により、当時の稲毛領37ヶ村および川崎領23ヶ村の合計約二千町歩にわたる広範囲に水路が巡らされ、この地域では新田開発が進み「稲毛米」と呼ばれる上質な米を産したと言われています

二ヶ領用水古地図~魅力いっぱい 多摩川散策情報
二ヶ領用水古地図 (資料提供:国土交通省京浜河川事務所)

二ヶ領用水の名前の由来

二ヶ領用水は、稲毛領と川崎領の2つの領にまたがって流れる農業かんがい用水であることから「二ヶ領用水」と呼ばれるようになりました。下の図は、江戸時代の二ヶ領用水と各水路・施設との関連を示したものです。資料は国土交通省京浜河川事務所によります。



 


1. 妙楽寺(みょうらくじ)
川崎のアジサイ寺として知られる天台宗妙楽寺は、鎌倉幕府の外郭の境界として、多摩川を眼下に見下ろす長尾丘陵の一角に建てられ、軍事的位置としても重視されていた威光寺の一塔頭が妙楽寺の前身と云われています。この寺院には、頼朝の異母弟であり、源義経の実兄であった阿野全成が住持として入山していた時があった。阿野全成の幼名は今若と言い、母は常盤御前である。全成は、平治元年(1159)の平治の乱で父源義朝が平清盛に敗れると醍醐寺に預けられた。『吾妻鏡』によれば、時が経た治承4年(1180)、平家追討の令旨が下され、源頼朝が挙兵したことを京都で聞くと寺を抜け出し、修行僧を装って、頼朝の居る下総国へ向い、兄弟のなかで真っ先に頼朝の下に駆けつけた。これを向えた頼朝は涙を流して喜んだという。幕府成立後、全成は頼朝に、武蔵国長尾山威光寺を与えられた。その後、北条時政の娘・保子(阿波局・北条政子の実妹)を妻とし、駿河国阿野荘が与えられ「阿野」を名乗った。建久3年(1192))8月、頼朝の次男実朝が誕生すると阿波局が乳母となり、全成は乳母夫として養育係となっている。源頼朝の死後、嫡男頼家がその跡を継ぐと、北条時政が、弟の実朝を擁立しようと画策し、全成もそれに加わった。しかし、建仁3年(1203)5月、全成は頼家の命を受けた武田信光に捕らえられ、常陸国へ流された後、6月に誅殺された。全成の跡継ぎは僧門に入ったり、武家になった者は、のちに北条と対立して滅ぼされ絶えた。しかし、娘は藤原北家公佐の室となり、その子実直は阿野を名乗って数代続いた。のちに後醍醐天皇の寵愛を受けた阿野廉子はその末裔である。

2、県立東高根自然公園
川崎市の北部、かつては豊かな森林が広がっていた多摩丘陵の東端近くに位置する。また、多摩川とその支流である平瀬川に囲まれた場所で、古くから森林の中に人々が生活する里山的環境が形成されていた。それを今に伝えるように、周辺では今でも新興住宅地や団地等の中に混じって昔ながらの民家が点在する。しかし、昭和以降の東京圏への人口集中の影響を受け、当公園の立地する多摩丘陵東部にも急速に開発の手が入り、たとえば東名高速道路が造られる際には当公園北部の山を切り通し、または宅地造成なども相次ぎ、その風景は大きく変貌した。そのような開発の過程で、当公園北部(現在の古代芝生広場付近)にて、弥生・古墳時代(推定3〜6世紀頃)の遺跡として、約60軒分の竪穴式住居跡や、ドングリなどの食糧貯蔵穴跡、貝塚などが発見された。また遺跡周囲にはシラカシ林が自然林に近い形で残っており、これが学術的にも非常に価値の高い植物群落であると判明した。それを受けて神奈川県では、これら遺跡とシラカシ自然林を文化財として保護するため、昭和46年(1971)に、史跡および天然記念物に指定。当時の人々が耕作を営んでいたと推測される周囲の谷(現在の湿生植物園)や、里山的環境の様相を色濃く残す雑木林などを含め一体として保全するため、当地は都市公園として整備されることになった。かつて、豊かな自然と多様な生態系を誇っていた多摩丘陵は、近年の急速な開発で様相が激変しているが、ここ東高根森林公園と緑ヶ丘霊園、向ヶ丘遊園跡、生田緑地は概ね東西方向に尾根続きになっており、この一帯で往時の貴重な自然環境を今に伝えるとともに、近隣住民に憩いの場を提供している。春のサクラと新緑、梅雨のアジサイ、秋の紅葉、冬のサザンカは、来園者の目に彩りと季節感を与えている。

 3 女躰神社(にょたいじんじゃ)
「江戸時代の頃より南河原の「大女様」(おおめさま)として親しまれ、多摩川の鎮めの神様として崇敬されてきた。社伝によれば多摩川と鶴見川に挟まれたこの地は、たびたび大大水に見舞われてきたが、ある年これまでにも無いような大洪水に遇い、田畑も水没し、村人たちの窮状に胸を痛めた一人の女性が、水中に身を投じ、水神の怒りを静めたといわれる。その後は水害も収まったので、村人たちは感謝し、ほこらをまつり遺徳を偲んだのが始まりとされている。」このようなことから、女性の悩みを解決し、願いを叶えてくれる神様、安産の神様として親しまれている



4 妙光寺(みょうこうじ)
日蓮宗妙光寺には、『民間省要』を著し、幕臣に取り立てられた人物として著名な田中休愚(きゅうぐ)の墓があります。田中休愚は、寛文2年(1662)、武蔵国多摩郡平沢村(現・秋川市)の旧家窪島八郎左衛門の次男に生まれ、本名は喜古と言いました。農業の傍らに絹織物の行商なども行ない、やがて武州橘樹郡小向村の田中源左衛門家へも出入りするようになり、これが縁で川崎宿本陣田中兵庫の養子になりました。 宝永元年(1704)には、家督を継いで本陣の当主となり、まもなく問屋・名主も兼帯し、宝永6年には川崎宿財政の建て直しのために、六郷川渡舟権の取り扱いを関東郡代伊奈忠順(ただのぶ)に上申して許可され、川崎宿の復興と繁栄をもたらす基を築きました。しかし、休愚の活躍は、むしろこの後に本格化します。正徳元年(1711)問屋役などを子の休蔵に譲り、やがて江戸に遊学し、儒学者 荻生徂徠や成島道筑(両人ともに将軍の侍講・相談役)などに学び、享保5年(1720)には、西国行脚にも出ました。50歳を過ぎてからのことです。そして、休愚は同6年にみずからの経験に基づく民政上の意見書『民間省要』を完成させたのでした。同書は翌年、儒学者 成島道筑や町奉行大岡忠相によって将軍吉宗へ献上され、休愚が民政へ従事する契機になりました。享保8年には、早速、十人扶持が給され、その当時の普請関係の役人として天下に名の知られていた井沢弥惣兵衛(見沼代用水・運河を完成させた幕臣)の指揮のもと、荒川、多摩川、六郷用水・二ヶ領用水の普請に従事しました。さらに享保11年には、これらの事績が認められ、町奉行 大岡忠相の指揮下に入り、宝永の富士山噴火後、水災害に悩む酒匂川の治水工事を行うことを命じられます。この工事は難工事で関東郡代 伊奈忠順や小田原藩も手をこまねいていたものです。しかし、休愚は地元農民の力を巧みに引き出し、伊那の期待に応える成果を収めました。 幕府は、これを高く評価し、享保14年7月、休愚を、武州多摩川周辺3万石余を支配する勘定支配格(代官)に抜擢しました。しかし、惜しいことに5ヶ月後の12月22日には、江戸の役宅で没したのでした。享年68歳。妙光寺の休愚の墓の周辺には、彼の手代達なども発起人に加わり建立された灯籠や、彼の子で跡を継いで代官となった休蔵による休愚の碑文、そして、その休蔵の墓をはじめ、田中家代々の墓があります。

5 稲毛神社
稲毛神社は、明治以前は「川崎山王社」と称し、現在も氏子の間では「山王さん」の名で親しまれています。社伝では欽明天皇の時代(6世紀頃)に鎮座したといい、平安時代には近江坂本の日吉大社の御分霊を勧請し、河崎庄の鎮守社であったと云われている。江戸時代に編さんされた『新編武蔵風土記稿』では、源頼朝の頃、佐々木高綱が奉行となって社殿を造営したと伝えています。室町時代の応永11年(1404)に草稿された「長弁私案抄」には「武州河崎郷山王社」へ大般若経書写奉納の勧進を行ったと記されています。江戸時代に入ると、天正20年(1592)に代官頭伊奈忠次の検地によって、朱印地20石が安堵されています。江戸時代を通し、東海道川崎宿の総鎮守として人々の崇敬を集め、師走27日には境内に市が立って賑わいました。 安政5年(1858)夏、コレラ流行のさい、宿民が昼夜裸参りをして無事を祈願しています。夏の例祭は山王祭と呼ばれ、「東都歳時記」には町中に花出しや踊りが繰り出される賑わいを見せた大祭だったことが記されています。境内には享保14年(1729)、田中休愚(きゅうぐ)の手代衆らによって奉納された手洗石や、寛保2年(1742)の洪水で破損した小土呂橋の一部が保存されています。



6 妙遠寺(みょうえんじ)
妙遠寺境内には二ヶ領(稲毛・川崎)用水を完成させ、部落民の定着も図った小泉次大夫夫と川崎中興の祖といわれた田中休愚の、偉業を讃える「泉田二君功徳碑」・小泉次大夫夫婦の逆修塔があります。小泉次大夫(天文 8年(1539)~ 元和 9年(1623)は、今川義元家臣・植松泰清の長男・吉次として、現在の静岡県富士宮市小泉付近で、出生しました。もともと植松家は樋(とい)という代官(用水奉行)を務めていて、徳川家康が、姓の植松と呼ばず、居住地の小泉と呼んでいたことから、小泉次太夫と名乗るようになりました。 天正18年(1590)、小泉次大夫は多摩川から農業用水を引く用水路敷設を進言して徳川家康により採用され、以降、稲毛・川崎領(現・川崎市)に居を移して住み、用水奉行の任に就いた。 そして、慶長 2年(1597)、二ヶ領用水、六郷用水(現・狛江市、世田谷区、大田区の農業用水)の建設に着手しました。二ヶ領用水は、多摩川に2箇所の堰(せき)を設けて一つは上河原堰、もうひとつは宿河原堰から取水しました。取水した水は、今日の川崎市全体に枝分かれし、その幹線水路の全長は約32kmに及んでいます。 慶長16年(1611)、二ヶ領用水、六郷用水は完成しました。この用水により、川崎領と稲毛領(二ヶ領)での米の栽培は盛んとなり、ここで作られた米は稲毛米と呼ばれ、味もよく、江戸近郊のお米として評判になりました。元和 5年(1619)、小泉次太夫は、川崎領砂子(現・川崎区砂子)の妙遠寺に隠居し、余生を送りました。
元和 9年(1623)没、享年85歳。

7 宗三寺
曹洞宗瑞龍山宗三寺は、13世紀 鎌倉時代に僧 領室玄統が開いた禅宗勝福寺を起源と伝わる。河崎庄の地頭だった近江源氏の名将佐々木高綱が砂子一帯を領したとき、菩提寺にしたと云われ、孫の泰綱のとき檀越となり、寺は頗る繁栄したと云います。16世紀に入り 天正年間には、小田原北条氏の家臣 間宮豊前守信盛がこの地を領した。信盛は、この地をよく治めたのち杉田(磯子区)に隠居し、瑞龍山雲谷宗三の法号を得た。この法号に因んで、勝福寺は宗三寺と呼ばれるようになったと云う。本堂左手の六地蔵の先の大公孫樹の下に信盛の供養塔があり、表面には「当寺開基雲谷宗三居士」、側面には「天和三年(一六八三)」と書かれている。この墓は江戸幕府の大番衆(治安職務)・間宮盛重父子が施主になって建てたものである。その他、墓地には大阪夏の陣で豊臣方の武将で、元和元年(1615)川崎に土着して、馬込屋という油商を営んだ波多野伝右衛門一族の墓や、川崎宿貸座敷組合が建立した飯盛女(遊女)の供養碑がある

   田中本陣は川崎宿に三つあった本陣の中で最も古くからあった。幕府による参勤交代の導入によって多くの大名家が東海道を旅するようになるとともに栄えた。特に江戸時代中期に田中丘隅が本陣経営に当った頃は、幕府の許可を得て、六郷川の渡し船の請負も運営するなどを行い経営を大いに発展させた。しかし、江戸後期になると幕府財政の逼迫や参勤交代の緩和で客が減り、そして農村の荒廃などによる諸物価の高騰で、本陣経営は圧迫されて次第に疲弊して行った。本陣も老朽化していき、安政4年(1868)アメリカ駐日公使ハリスは本陣に泊まらず、万年屋に宿を取ったという。明治に入り明治天皇が休憩した記録があるが、明治の中頃に姿を消した。

 
 
 
 一行寺
寛永8年(1631)矢向にある良忠寺の円超和尚が開山した浄土宗の寺院。宿場町として活況が帯びてきた川崎宿で火急が生じた場合の宿泊者避難所としても充てられた。境内には閻魔堂があり、”おえんさま”の名で親しまれ、戦前閻魔堂のご開帳の日は境内に屋台が立ち並びお参りの人々でにぎわったという。客殿正面に掲げられる額は徳富蘇峰の書である。本堂手前には「仮山碑」が建っている。これは、時の名主 稲庭氏が紀伊国屋の隠居を招いて、庭で酒を酌み交わしながら漢詩文を吟じたという風雅な情景を刻んだものである。境内の墓地には、川崎宿で寺子屋「玉淵堂」を開き太田南畝らと交誼のあった能書家浅井忠良や富士講の大先達として幕末期に著しい宗教活動を行った西川伊織の墓がある。

 
 
 教安寺
天文22年(1553)ころに開山された浄土宗の寺院。江戸時代後期幕藩体制の動揺に伴う社会不安や農村部における貧富の格差は人々に将来の不安と危機感を募らせた。そのような状況下に富士山に弥勒の浄土を求めた庶民信仰の「富士講」は関東一円で爆発的な流行を生み出した。さらに当時「生き仏」と崇められた浄土宗高僧の徳本上人は全国を各地を遍歴して念仏を勧め、浄土往生を願う農民たちに安らぎを与えた。彼の赴くところに自ずから一つの信仰集団が生れ「六字名号碑」の建立が行われた。教安寺残る燈籠は富士講の熱心な信徒であった西川満翁が組織した「タテカワ」講によって建立されたものであり、境内の六字名号碑は同じく宿民によって建立されたものである。