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2018年1月11日(木) 快晴、気温10℃。 10時30分に自宅を出て、追浜七福神めぐりの散歩に出ました。
追浜七福神めぐりが、いつから始まったのか記憶にないが、数年前に知り、該当の寺院もかって訪れたことがあり、知っていたが、福神参詣として訪れるのは今回はじめてである。最初に訪れたのが七福神の布袋尊を祀っている浄土宗良心寺。布袋尊は、弥勒菩薩の化身といわれ、いつも笑顔を絶やさず人々に接していた人で、大きな袋には宝物がいっぱい入っていて、信仰の厚い人に与えられたという。笑門来福、夫婦円満、子宝神として信仰が厚いと云われている。 |
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戦国時代、武蔵国三浦半島一帯は後北条氏が支配していた。ここ追浜地域は、北条家の中堅家臣朝倉景澄が
領主として治めていた。良心寺はその頃、建立された寺院で、墓域には朝倉景澄妻の宝篋印塔の墓がある。 |
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つづいて、平六トンネルを抜けて、浦郷小学校の運動場、三菱地所が開発したザ・パークハウス追浜のマンション群を通って、訪れたのは浄土宗 観音寺の寿老人を参拝。 寿老人は、福禄寿と同じく星の化身で、微笑みを浮かべて、手には巻物を括り付けた杖、そして団扇や桃などを持ち、鹿を従えた姿が一般的に知られている。団扇は難を払い、桃は長寿のしるしで、鹿もまた長寿の象徴である。長寿延命、富貴長寿の神として信仰されている。 |
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観音寺のある山を下り、海岸近くにある時宗 能永寺の弁財天を参拝。弁財天は、七福神の中で、唯一の女神で、元はインド河(水)の神であったが、やがて音楽の神、言語の神となり日本に伝わった当初は、弁才天と呼ばれた。その後、財宝・芸術に関係深い吉祥天の性格が吸収され弁財天といわれるようになり、財宝を授けてくださる神となったものである。知恵財宝、愛嬌縁結びの徳があるといわれている。 |
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深浦港の近くにある臨済宗 独園寺の恵比寿尊を参拝。 恵比寿尊は七福神中で唯一の日本の神様。いざなみ、いざなぎの二神の第三子といわれ、満三歳になっても歩かなかったため、船に乗せられ捨てられてしまい、やがて漂着した浜の人々の手によって手厚く祀られたのが、信仰のはじまりと伝えられている。左手に鯛をかかえ右手に釣竿を持った親しみ深いお姿の、漁業の神で、特に商売繁昌の神様としても信仰が厚い。 |
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官修墓地は、西南戦争に従軍した官軍兵士が、戦いの帰路に乗船した船内にコレラが発生し、病死した兵士達が葬られた墓。 |
独園寺から旧浦賀街道を北に進み、官修墳墓碑の前にあるトンネルを抜けた左手に臨済宗 正禅寺がある。この寺院で毘沙門天を参拝。毘沙門天は、四天王の一仏で、別名「多聞天」といい、七福神の中で、唯一の武将の姿をしていて、右手に宝棒、左手に宝塔、足の下に邪鬼天の邪鬼を踏みつけている。七福神では、融通招福の神として信仰されています。 |
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つづいて、夏島貝塚通りを追浜駅方面に向かい、堀写真館前の道を左折して、100m程のところにある臨済宗 自得寺の大黒天を参拝。 大黒天は、大自在天の化身ともいわれ、大国主命と神仏習合したものである。一度仏となったが、人々に福徳を授けるために再びこの世に現れたという。大地を掌握する神様(農業)でもある。大きな袋を背負い、打出小槌をもち、頭巾をかぶられた姿が一般によく知られていて財宝、福徳開運の神様として信仰されています。 |
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自得寺に並ぶようにして建つ浄土宗 正光寺に福禄寿を参拝。福禄寿は、名前は、幸福の福、身分をあらわす禄、寿命を表わす寿の三文字からなり、中国、道教の長寿神。南極老人星の化身であり中国の村や町に住み、人々の信仰を集めたと言われる仙人である。長い頭、長い顎鬚、大きな耳たぶをもち年齢 千歳という。長寿、幸福の徳を持ち、鶴と亀を連れて、左手に宝珠、右手に巻物を括り付けた杖をもつ姿が特徴である。招徳人望の神様として信仰されている。 |
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国道16号線に出て、金沢方面を100m程歩いて、右側に入る道を辿ると七福神めぐり最後の寺院日蓮宗 法福寺があり、当山の守護仏・毘沙門天を参拝。毘沙門天は、四天王の一仏で、別名「多聞天」といい、七福神の中で、唯一の武将の姿をしていて、右手に宝棒、左手に宝塔、足の下に邪鬼天の邪鬼を踏みつけている。七福神では、融通招福の神として信仰されている。 |
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かくして、本日、10時30分にスタートして、約2時間の追浜七福神めぐりを無事終えることができました。
日頃の運動不足を解消できる良い散歩ができ、そして追浜の歴史を再認識できた歩きんぐでした。 (Gibun) |

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