大久保神社
大久保神社は、小田原大久保家、初代忠世から10代忠真(ただざね)が祀られています。大久保家は、下野国宇都宮に勢力を持った藤原道兼の流れを組む宇都宮朝綱の子孫泰藤(やすふじ)のとき、建武の役で、新田義貞に従い転戦したが、義貞が越前で討死したのち三河の上和田に土着した。その後、宇都宮から宇都に改名し、室町期の頃から松平信光の臣下となって、忠員(ただかず)のとき大久保姓に改めた。忠世は忠員の子で、遠州二股城主であったが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻略に、德川家康に従い参戦し、戦後、4万5千石の小田原城主になった。大久保家は、2代忠隣(ただちか)のとき改易となり、その後、5代忠朝の時に、70年振りに小田原城主へ返り咲いた。写真、再興の碑はこの事を意味している。その後、加増され石高は11万3千石にまで達した。忠真は、大坂城代、京都所司代、老中を歴任し、二宮尊徳をはじめ、多くの人材を登用して、忠臣孝子顕彰するなど領民から親しまれ、大久保家中興の名君として知られている。以降も代々、小田原城主として栄え、15代忠良のとき、大成奉還から明治の世を迎えるまで小田原藩主として続きました。
報徳博物館
 
二宮報徳神社