千葉散歩  木更津・久留里界隈
 2019年3月13日(水) 千葉木更津から久留里城址界隈の散策に出向いた。神奈川に住む者からすると、かなり遠隔に思えるが、横浜駅から高速バスでアクアラインを通って行くと、一時間ほどで木更津駅に着くことが出来る。木更津は律令時代は東海道の道筋にあって栄え、近世においては、大阪冬の陣の戦功で、江戸幕府から天領の年貢輸送権や江戸の河岸場占有権が認められて、大いに繁栄した町である。この木更津と電車で40分ほど離れた久留里町は、江戸期、徳川譜代の大名が治めていた。その藩庁であった久留里城址とその周辺をめぐる旅を桜が咲き、菜の花が咲いているこの時期に訪れた。 (石井義文)
 久留里城址
久留里神社
黒田家菩提寺  真勝寺 
新井白石居宅跡 
円覚寺
  土屋氏は甲斐武田氏の家臣として仕え、天正十年(1582)天目山の戦いで武田勝頼が滅ぼされたとき、土屋昌経も自刃したと云われている。昌経の遺児、惣蔵は駿河清見寺で教育を受けていた頃、鷹狩りに来ていた徳川家康の目にとまり、阿茶の局のもとで秀忠の近習に取り立てられた。惣蔵はのちに、秀忠の一字を賜って土屋平八郎忠直と名付けられ、慶長七年(1602)七月、二万石を拝領して、久留里城主となったが、慶長十七年(1612)四月、三十四歳で病没した。
二代利直は、名君の誉れ高く、新井白石親子を家臣に抱え、藩士たちに楊枝作りの内職を奨励して、藩財政の健全化に貢献した。六十九歳で逝去した。三代頼直の代に、お家騒動が起こり、これがもとで、家禄を没収され、延宝七年(1679)八月、改易となった。円覚寺は慶長九年(1604)忠直によって創建された曹洞宗寺院で、寺領五十石を拝領していた。
三基の五輪塔はいずれも台座からの高さ3.8メートルあり、市内最大規模を有する。五輪にはそれぞれ「地水火風空」の文字が刻まれている。左端が初代忠直の墓で、中央は忠直の正室、右端は二代利直の墓である 
真言宗 円如寺
 神明宮
久留里城址および周辺寺社の散策を終えて、再び木更津に戻る
 光明寺
愛染院
 選擇寺(せんちゃくじ)
 証誠寺
 
 成就寺
 八剣八幡神社
これにて、本日の千葉散策・久留里城址、証誠寺界隈の散策をお開きとします 
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