 |
東京湾フェリー |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
源頼朝 上陸の地 |
源頼朝上陸地
治承4年(1180)8月。伊豆で挙兵した源頼朝は、23日、平家方の大庭景親との石橋山合戦で敗れ、真鶴から海路脱出し、安房国へ向いました。「吾妻鏡」には、「29日頼朝公は土肥実平を伴い、安房国猟島(龍島)に着きました。北条時政、三浦義澄以下、人々が出迎えて歓迎しました」旨、書かれています。頼朝は北条時政、三浦義澄らと合流し、再起を図りました、当時、房総には、下総の千葉常胤、上総の上総広常、安房の安西景益、丸信俊ら、源氏恩顧の豪族が多く、また、内房沿岸は対岸三浦半島の三浦氏の勢力範囲でもあり、頼朝が房総での再起を選んだ理由と言われています。房総一の兵力を誇っていた上総介広常のもとに向うべく、外房の長狭(鴨川)へ進んだ頼朝一行は、9月3日、平家に味方する地元の豪族長狭恒伴(ながさつねとも)の襲撃を一戦場で撃破、ひとまず南房総の安西景益の館に入り、各地の豪族へ使者や書状を送り、味方を募り、情勢を見極めました。その間、州崎神社、丸御厨へ足を運び、鋭気を養いました。13日、安房を進発して兵力を加えつつ、房総を北上し、進軍路周辺の豪族そして、東国の豪族たちを糾合して、鎌倉に入国しました。この鎌倉を基点として、京に進み、西国に逃れる平家を壇ノ浦で滅ぼし、鎌倉幕府という武家政権を樹立しました。この頼朝再起の一歩は、この海岸から始まったのであります。
|
|
 |
 |
 |
 |
菱川師宣記念館 |
菱川師宣は、安房国保田で縫箔刺繍業を営む父菱川吉左衛門と母オタマの間に、7人兄弟の第4子長男として誕生。俗称は吉兵衛、晩年には剃髪して友竹と号しました。生年は不祥ですが、寛永年間の中頃(1630年頃)と推定されています。幼い頃より絵を描くのが好きだった師宣は、家業を手伝い、刺繍の下絵などを描くかたわら、漢画や狩野派、土佐派などの諸流派に接し、独学で画技を磨きました。
その後、江戸に出た師宣は、まず版本の版下絵師として活躍。文章を少なく、挿絵を大きく取り入れた絵本で、江戸の庶民の人気を獲得しました。さらに鑑賞用絵画としての木版摺りの一枚絵を手がけ、絵画文化の大衆化に貢献しました。これが後の浮世絵版画のもととなったのです。師宣は、江戸の庶民を題材とした風俗画を描き、その情報発信にも着目していました。肉筆画においても、歌舞伎や吉原遊里の風俗をこまやかに、色鮮やかに描き、「見返り美人図」に見られるような独自の女性美を追求し、「浮世」と呼ばれた当時の世相にマッチした新しい絵画様式を確立しました。
また師宣は故郷保田をこよなく愛した絵師でもあり、落款には「房陽」「房國」と冠称し、房州生まれの絵師であることを誇示し、保田の別願院には父母や親族の供養のための梵鐘を寄進しています。元禄7年(1694)6月4日、師宣は江戸で亡くなり、遺骨は別願院に葬られたと思われます。
|
|
 |
 |
 |
 |
 |
 |
梵鐘の由来
菱川師宣は故郷保田の林海山別願院に梵鐘を寄進しました。鐘銘は師宣直筆と言われ 菱川家の家系図も刻まれており、大変貴重な資料でした。しかし、残念なことに、戦時中金属回収令により供出させられてしまいました。この梵鐘は供出前の写真、拓本をもとに復元されたものです。因みに、鐘楼は、師宣の菩提寺、保田の昌龍寺に文化3年(1806)に建てられたものを移築したものです。師宣は寄進した一ヶ月後の、元禄7年6月4日江戸で死去しました。
(鐘銘) 南無阿弥陀仏 (寄進施主) 菱川吉兵衛 藤原師宣
|
|
 |
鶴峯八幡宮 |
 |
 |
 |
 |
鶴峯八幡宮
鶴峰八幡宮は、上総国天羽郡総社で、奈良時代の養老年間(717-724)に創建された。御祭神は、誉田別尊・玉依姫命・神功皇后。鎌倉時代初期に源頼朝・上総介広常による神領の寄進があった。中世には上総武田氏、里見氏の尊崇を受けた。戦国時代の永正4年(1507)、武田信嗣・信秋により再興された。その時奉納された棟札が今日まで伝わっている。房総には鶴を冠する八幡神社が多く、他に、館山市の鶴谷八幡宮、市原市の鶴峯八幡宮などがある。関東の三鶴、いわゆる三鶴八幡には諸説あるが、市原市中高根の鶴峯八幡宮ではなく、当社を入れ、館山市八幡の鶴谷八幡宮、鎌倉の鶴岡八幡宮とする説がある。例祭は毎年9月15日に行われる。鶴峯八幡神社祭礼として知られ、大鳥居前に立てる高さ約20m2の幟は、人の手で立てられる幟としては全国でも有数の高さとされる。木遣り獅子舞や天狗を先頭にした行列が3基の神輿を先導して新舞子海岸に向う。海岸では、多くの参観者が見守る中、2基の神輿が同時にお浜入りする。海中につかり、いわゆる海中渡御が行われる。境内社には、浅間神社、祖霊社、粟島社の他、末社がある。また、ご利益は水難除け、海上安全、大漁満足、安産、子育てに良いとしている。
|
|
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
東京湾観音像 |
 |
東京湾観音
東京湾観音は、1961年、宇佐美政衛が平和祈念と戦没者の慰霊を目的として大坪山の山頂に東京湾の入り口に向かって建てました。東京湾と富士山を一望する56メートルの観音像は、戦後世界平和を願って建てられたものです。内部に階段が設けられ頭部まで登る ことが出来ます。宇佐美政衛は第二次世界大戦中に東京深川で材木問屋を営んでいたが、昭和20年(1945) 3月の東京大空襲で町は一面火の海となり多くの犠牲者を出しました。その様子を目の当たりにした政衛は世界平和の尊さを深く感じ、戦後建設委員長として富岡八幡宮を支援するなどしていたが、戦没者慰霊ならびに世界平和への想いから、東京湾観音は建設されました。建設には1954年の構想から5年の歳月をかけ1959年に完成しました。この観音像は浦賀水道を往来する船の灯台の役目も果たしています。
|
|
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
弟橘媛像 |
 |
 |
 |
 |
弟橘媛 (おとたちばなひめ)の像
当地、岩瀬郷は近くの磯根崎と富津岬の景勝地に囲まれ、海を隔てた西方の走水、観音崎の背後に富岳函領を望む白砂青松の海浜集落です。古事記、日本書紀の伝承によると、大和朝廷が東国の開拓と教化を薦めるため、景行天皇は皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)を派遣するにあたり、大和豪族の娘・弟橘媛を妃にさせたと言われています。日本武尊は東海道を東に下る途中、焼津周辺で、その土地の豪族の企てた火難に遭遇したとき尊(たける)は草薙の剣を持って雑草を切り払い、いわゆる「迎え火」を以て、これを撃退しました。ついで、三浦半島から走水を越え、房総に渡ろうとしたとき、にわかに起こった突風のため、尊の船隊は進路を阻まれました。この絶対的な窮状を見た弟橘媛は、これぞ海神の怒りであろうと尊が制止するのを顧みず、自ら荒波狂う海中に身を投じて、海神の怒りを鎮め、尊たちの海路、東進を成功させたと伝承されています。
|
|
小久保藩邸・藩校跡
|
小久保藩邸・藩校跡
富津市中央公民館付近の敷地は、明治元年(1868)から明治4年(1871)7月までの4年間小久保藩が置かれ、藩邸・藩校等が所在していた場所です。初代藩主田沼意尊は江戸中期、第10代将軍家治の時代に老中であった田沼意次から数えて9代目の子孫に当たる。明治元年5月、德川宗家第16代家達が駿河に退き、府中藩が成立したのに伴って遠江相良藩1万石の田沼意尊が上総天羽に移封となり、小久保に陣屋を構えました。明治2年、意尊は版籍を奉還して、小久保藩知事を命じられたが、同年12月に小久保で病死し、養子の意斉が家督を継ぎました。明治4年(1871)7月、廃藩置県により意斉は藩知事を免じられ、小久保藩は消滅しました。小久保藩校の盈進館は58坪ほどの建物で、明治3年10月に開校した。洋学を取入れ、英語に加えて算術、地理、歴史も教え、士庶共学でした。明治5年(1872)の学制頒布によって、盈進館は小久保小学校の校舎となり、現在の大貫小学校になりました。
|
|
 |
 |
 |
 |
富津陣屋跡
|
富津陣屋跡 富津陣屋は当初旗本小笠原氏の居所として天正18年(1590)に建設されましたが、その後、旗本の江戸在住に伴って廃止となりました。江戸後期、文化7年(1810)に老中松平定信から江戸湾の房総沿岸防備を命じられると文政5年(1810)館山の波佐間から移設され、新たな富津陣屋ができました。以後、富津の領主は、幕府代官、武州忍藩、会津藩、柳河藩、二本松藩、前橋藩と引き継がれ、藩領内の行政や海防の拠点、および駐留藩士の居所として使用されました。現在の陣屋跡は宅地化されていますが、平成9年(1997)に一部が発掘調査され、建物跡や白洲跡とともに大量の陶磁器類が発掘されました。幕末の慶応4年(1868)閏4月、旧藩府勢力の請西藩主林忠崇(ただたか)が挙兵し富津陣屋を包囲しました。前橋藩では反乱軍に陣屋を明け渡し、兵士、武器、食料を与えた。その責任を負って家老・小河原左宮(おがわらさみや)、陣屋総括者・白井宣左衛門(はんざえもん)は自刃しました。同年10月、前橋藩は上野へ領地替えとなり、富津陣屋は廃止、富津村は飯野藩領となりました。
|
|
 |
 |
飯野陣屋跡
|
飯野陣屋跡
飯野陣屋は初代藩主保科正貞が慶安元年(1648)に造営したもので、明治4年(1871)の廃藩置県に至るまで10代223年間に亘って飯野藩主および家臣達の居所でした。正貞は高遠城主保科正直の3男で、母は家康の母於大の方の娘です。少年期から家康に仕え、大阪夏の陣では軍功を上げています。寛永6年(1629)には、上総、下総及び摂津に領地を与えられ17000石の大名になりました。本家の高遠藩主は2代将軍秀忠の子で、のちに会津藩主となった保科正之である。歴代の飯野藩主は、多くの場合大坂定番や江戸城門番や日光祭礼奉行に任じられることが多く、藩主や上級藩士が千葉の飯野で過ごすことは少なく、江戸の上屋敷や大坂に在住することが多かった。戊辰戦争のときの藩主保科正益(まさえき)は、会津に味方していたこともあり、謹慎していたが、廃藩置県のあと、飯野県知事となったが、僅か4カ月後、木更津県に合併され、解職となり東京に居所することになりました。旧藩士たちは離散し、やがて建物は取り壊されていき、濠と土塁が残る現在の状況に至っております。
|
|
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
富津岬 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
本日は、天候に恵まれ、絶好の散策日和でした。 |
 |