渋沢栄一 生年:天保11.2.13(1840.3.16) 没年:昭和6.11.11(1931)
実業界における明治大正期最大の指導者。武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)の名主の長男として生まれ,22歳のとき江戸に出て尊王攘夷運動に参加,横浜の異人館焼き打ちなどを企てたあと,京都で一橋(徳川)慶喜の家臣となる。慶喜が将軍になったとき幕臣となり,慶応3年(1867)慶喜の弟德川昭武に随行してパリ万博に赴き欧米を見学,帰国後徳川家と共に静岡に移住した。明治2年(1969)新政府に召されて大蔵省に入り,井上馨と共に財政制度確立に努めたが,各省の抵抗に遭い,同6年大蔵少輔事務取扱のとき辞職。同年6月第一国立銀行創立に当たり総監役となり,8月開業。8年1月より同行頭取として長く経営に当たった。また7年には王子に抄紙会社(のちの王子製紙)を設立,甥大川平三郎に技術部門を担当させた。渋沢の自身の事業は以上の2社が主で,財閥といわれるほどの規模には達しなかった。しかしその本領は財界の指導者としての活躍にあった。すなわち9年東京会議所(のちの東京商業会議所)会頭となって長期勤続したのをはじめ,東京・青森を結ぶ日本鉄道会社,最初の本格的紡績企業である大阪紡績の創立(1881)に当たっては,株主を勧誘し人材を集めて産み育て役を務めた。その後,東京ガス,帝国ホテル,北海道炭鉱鉄道,東洋汽船,京釜鉄道など重要企業の創立においては発起人として旗振り役を務め,人びとは渋沢の信用によってそれに参加するようになり,財界の指導者,取りまとめの役割を果たした。「論語とソロバン」を両立させるべきだという持論は有名で『論語講話』の著書もある。明治41年には訪米実業団団長として渡米。そして、晩年には、多くの実業人が社会貢献への取り組みが不十分で、積極的でないことを憂い、自ら率先して、貧民救済の福祉や女子の教育推進の積極的に取り組んだ。それは東京府養育院および商法講習所(現一橋大学)や東京女学館や日本女子大学等の教育機関の設立等に見られ、今日も生きて活動している。渋沢はこの職務に、終生献身的でした。大正9年(1920),積年の功により,子爵を授けられました。(人物事典より) |
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