鎌倉街道上道 その4    瀬谷 ~ 下飯田 2016.08.12 
相鉄線で横浜から瀬谷駅へ、南口に出て、これより、横浜地下鉄線下飯田駅まで、本日の散策開始。
地名「二つ橋」の由来
 相模野の流れもわかぬ川水を 掛けならべたる二ツ橋かな   道光親王 
  しみじみと清き流れの清水川 かけ渡したる二ツ橋かな   徳川家康 
二ツ橋地名の由来はこの歌のいずれかは詳かでないが 二首ともにこのあたりの清らかなたたずまいにふれて詠まれたものでその昔は豊かな自然に恵まれた土地であったと思われます。

二ツ橋学舎跡
  二ツ橋学舎跡は文久3年(1863)山名平左衛門義実が此の地に学舎を創設。武相二州に亘って学業の実を挙げ その弟子から数多くの人材を輩出し明治大正の時代にかけての指導者は山名先生の訓育によるものが多かったと伝えられています
最勝寺
南台公園~相澤川に沿って
 江戸時代の初期、この中瀬谷の領主は旗本後藤忠直が1600年に知行地として与えられていた。その後藤は薩摩島津氏の庶流であったことから、二代目から島津久利と名乗り、この地を治めていた。弘化元年(1844)江戸城に大火があり、領主旗本島津久利は薩摩から取り寄せて植樹して育てた梛(なぎ)の木の苗木を伐採して、中原街道を江戸まで急送して江戸城の復興に貢献したさせたという。
梛の木は名前のなぎが"凪"という風が静かでおだやかな海の様子と音が同じことから、古くから漁師や船乗りの家ではこの木の葉がご利益があるものと大切にされていました。そこから海に直接関係のない家庭でも、災難除けの神が宿る貴重な樹木として使われています。
宗川寺 
宗川寺
  宗川寺は、当初石川家の門除け「題目堂」として日蓮宗興統門流第十二世日賢上人が寛永2年(1625)に建立し、その後檀家の石川宗川の名をとり宗川寺と称した。 江戸時代に開山されたお寺で、田舎にしては、ほどほどの規模です。 境内は、銀杏の大木があり、隣接するお墓も多く、繁盛しているようです。 横浜瀬谷八福神の福禄寿(人望、福徳の神様)としてお祭りされている
全通院
全通院勢至堂
   全通院勢至堂は曹洞宗瀬谷山徳善寺として勢至菩薩を本尊として祀っています 相模国深見村の中丸佐源太が一夜霊夢に導かれ鹿島神社の旧跡から勢至菩薩像を発掘し 全国を巡礼して喜捨を請け徳善寺に納めました。その後、この全通院阿弥陀堂に遷座した と伝えられています。屋根の改修時に発見された棟札には江戸時代の寛政9年(1797)に現在の御堂が建立されたと書かれていました。地元では「お勢至(おせっし)さま」と呼ばれて親しまれています。
 
柳明神社と羽太資料館
本興寺
日蓮宗 法華山 本興寺
(縁起)本興寺ははじめ、日蓮聖人の直弟子・天目上人が鎌倉に開創した寺で、聖人が辻説法の途中、休息された地というので、「休息山本興寺」と称していました。 天目上人は、法華経28品のうち、前半14品の迹門と後半14品の本門では説相が異なると「迹門不読説」を主張。 天目上人の弟子たちもこれを唱えたが、日什門流の開祖・日什大正師の教化にふれて改派、『法華山本興寺』と改称し、弘和二年(1382)これをもって日什上人を当山の事実上の開祖としています。第27世の常楽院日経上人は、慶長13年(1608)に浄土宗の僧・廓山と江戸城中で法論する事になったが、前夜、品川の本光寺に泊まっていたところを暴徒に襲われ、立つ事もできない体で口も開けずに法論を戦わすこともないまま敗北と判定され、翌14年(1609220日、弟子とともに京都六条河原で「耳鼻そぎ」の極刑に処されました。さらには、日蓮宗の不受不施の一派や日経上人の流れをくむ者への迫害が厳しくなり、万治三年(1660)、現在の地に寺の一切を移されました。 また、本興寺のある飯田は、弘安五年(1282)に日蓮大聖人が池上でご入滅後、ご遺骨を身延に奉じる途次、1021日にご一泊された地とされています。
飯田神社
無量寺
 高野山真言宗寺院の無量寺は南龍山と号します。南龍山無量寺は、鎌倉法師貞暁阿闍梨が承元3年(1209)に創建したといいます。東国八十八ヵ所霊場55番、横浜三十三観世音霊場32番、武相不動尊霊場16番です。
長福寺
長福寺
   長福寺は、泉小次郎親衡(ちかひら)が道場として創建したもので、守護神として祀ったのが須賀神社で、館の鬼門除けとして勧請したのが「中和田老人憩いの家」の裏手にある神明社であるといわれている。建暦三年(1213)3月、泉親衡が和田義盛の子義直、義重と甥の胤長などと語らって、二代将軍源頼家の遺児千寿丸を擁して、北条義時を倒そうとしたが計画が事前に発覚し、逃亡したことが吾妻鏡に見える。この事件に和田義盛の子や甥がかかわっていたことから、和田合戦へと発展し、北条氏により和田義盛一族は滅亡させられた。
 
宝心寺
宝心寺
  德川能見松平家は三河国額田郡を治め、第6代松平昌吉のとき、この一帯の領主として転封してきました。昌吉は2000石余の禄高得た旗本でした。宝心寺を建立して、当山を菩提寺とし、幕末まで続きました。宝心寺の境内には岩舟地蔵尊、廻化地蔵尊があり、関東およびその周辺まで篤い信仰をうけていきました。 
和泉川の沿って遊歩道を歩き下飯田駅へ