東ローマ帝国を滅亡させた中世の城塞  ルメリヒサール             2012.09.17
 ルメリ・ヒサール
 オスマン帝国のメフメト2世がコンスタンティノープル郊外(現、イスタンブール)に造営した城塞で、ローマ人の土地(ルメリ)の要塞(ヒサル)という意味。1452年、メフメト2世は、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略する拠点として、コンスタンティノープルから金角湾を挟んだ北側約10km、アジアとヨーロッパの境界であるボスポラス海峡の最狭部(幅660m)のヨーロッパ側高台に、わずか4か月ほどの短期間でルメリ・ヒサールを造営させた。当時のコンスタンティノープルは、マルマラ海と金角湾にはさまれた半島の一帯にトプカプ宮殿や中心部(旧市街)があり、海と古代ローマ帝国の堅固な城壁に守られていた。そして、金角湾の入口には東ローマ帝国によって鉄製の太い防鎖が張られ、オスマン艦隊の進入を阻止する難攻不落の城塞都市となっていた。 メフメト2世はルメリ・ヒサールで緻密な攻略計画を立て、艦隊を陸上から丘を越えで金角湾に侵入させ、帝国側の守備の弱点を攻撃する奇策を立案して攻撃を開始した。虚を突かれた帝国側は狼狽しながらも必死の抵抗をした。しかし、オスマン帝国軍の怒濤の攻撃を防ぐことは出来ず、コンスタンティノープルは陥落した。東ローマ帝国滅亡後、ルメリ・ヒサールには多いときは400人の常備歩兵軍団が駐留し、水際の Halil Pasha Tower には大砲が置かれた。通行する船からは税関として通行料を接収し、応じなかった船は撃沈された。1509年、イスタンブール地震で城は倒壊したが、すぐに修復された。17世紀には外国人捕虜用の刑務所として使用されこともあった。1746年の火事では木造部分が燃えたが、これもすぐに修復された。19世紀には城内に住宅が作られている。 城の構造は、1つの小さな塔、3つのメインタワーそして主要な塔をつなぐカーテンウォールに配置された13の小さな監視塔が作られていた。 メインタワーの隣には3つの城門と脇門が造営され、南門には隠し扉が造られていた。その他、木造の兵舎とモスクとミナレットがあったが、現存していない。モスクの下には貯水槽が置かれ、水を要塞内の3か所に配給していた。中世の大城塞として見事なまでの保存されており、日々、多くの観光客が訪れている
城門跡