2018年10月28日(日)
  本日、早朝 6時頃に新幹線新横浜駅を出発して、9時前に京都駅へ着いた。奈良線に乗り換えて稲荷駅で下車。9時15分。駅前には大鳥居が凛然とそびえ立ち、全国3万社ある稲荷神社の総本社に相応しい威容を構えている。その参道には沢山の人達が参詣にやって来ている。その大部分は外国人。しかも中国、台湾、韓国からの旅行者が圧倒的に多い。いまの京都は斯様な状態であることを理解して、本日の散策の開始です。
伏見大神社
  伏見稲荷神社は奈良時代に創建された歴史ある古社です。711年、伊侶巨泰公(いろこのはたのきみ)が勅命を受けて、稲荷山にある三つの山の頂に稲荷大社を祀ったことが起源と言われています。平安時代に入ると大社は福神として人々の信仰を集めて908年に社殿が造営されました。また、942年には神階の最高位である正一位の社格が伏見稲荷神社に授与されます。鎌倉時代になると神と仏が一体になる「神仏習合」の信仰が盛んになり、神宮寺などが建てられました。この時代に、狐が大社の御使いとして考えられていたようです。1468年、応仁の乱によって、山上、山下の社殿の大半が焼失しましたが、1499年に本殿を再建しました。これが現存している本殿です。さらにその後、天下を統一した豊臣秀吉が信仰を深めており、 現存している桜門を建立しています。江戸時代になると、 戦はなくなり商業が発展していきます。 伏見稲荷大社は五穀豊穣の神様ですが、それが商売繁盛にも通じるということで全国の商人たちから信仰するようになりました。その結果、稲荷神社の分社が行われ、願いが叶ったお礼に赤い鳥居を大社に奉納するという習わしが生まれました。これが「千本鳥居」の始まりと言われています。現在では千本鳥居の美しさが有名となり国内外からたくさんの参拝者が訪れています。
  臨済宗 慧日山 東福寺
 摂政九条道家(摂政・鎌倉将軍藤原頼経の父)は、高さ5丈(約15m)の釈迦像を安置する大寺院を建立。建長7年(1255)に完成する。 寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」とした。諸堂の完成は文永8年(1271)。円爾弁円(えんにべんえん 賜号 聖一国師を開山に仰ぎ、当初は天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備。高さ5丈の本尊釈迦像は二度焼失し、長さ2メートルの巨大な手だけが現存するという。
当山の三門は室町時代、四代将軍足利義持指導により建立された日本最古のものである。高さは南禅寺に並ぶ約22mある。 (国宝)
 これよりJR東福寺駅に行き、京都駅から徒歩で東寺に向かう
東寺
 東寺は平安遷都からまもなく、京都の鎮護を目的とする官寺として建立された。延暦13年(794)に桓武天皇は平安京を造営。その折に羅城門の東側に建てられたので東寺と呼ばれた。西側にも官寺の西寺が建てられたが、中世に廃寺された。弘仁14年(823) 空海(弘法大師)が嵯峨天皇から東寺を賜った。その後、空海は東寺を真言密教の根本道場として発展させ、教王護国寺と称するようになった。正式名は「八幡山金光明四天王教王護国寺日秘密伝法院」。平安時代末期には源平の戦いで伽藍は荒廃した。鎌倉時代に入ると源頼朝の援助を受け、文覚上人が復興した。その後、応仁の乱ではここだけは聖地として破壊をまぬがれたが、室町時代の土一揆では拠点となってしまい、伽藍のほとんどを焼失した。その後も織田信長や豊臣秀吉・秀頼の援助を受けて復興を遂げ、江戸時代にも保護された。また東寺は弘法大師信仰の霊場でもあり、当時から庶民の厚い信仰によって支えられてきた。
 明治元年(1868)に焼失したが、明治28年(1895)に平安遷都1100年を記念して、三十三間堂の西門を移築した。重要文化財に指定。
 天長3年(826)、弘法大師が創建。その後たびたび火災に遭い、過去4回焼失している。現在の塔は寛永21年(1644)徳川家光が再建した。各階が3間四方で、周囲の板壁には真言八祖像が描かれ、柱や扉にも極彩色の文様が施されている。日本に現存する五重塔でもっとも高く、高さ57mある。
 金堂:延暦15年(796)に東寺は創建され、最初に出来たのが金堂です。金堂には朝廷の官寺としてふさわしい荘厳な姿が求められ建立されました。以後、600年以上、威風堂々とその姿を残している。本尊は七体の化仏(けぶつ)に光背(こうはい)を付けた薬師如来、左側に日光菩薩。右側に月光菩薩擁している。
講堂:空海が密教の教えを現し作ったのが立体曼陀羅である。大日如来を中心に五智如来、五大菩薩、五大明王、須弥壇の四方には四天王、梵天、帝釈天が配置され、合計21尊の仏像が安置されている。
 羅城門  西寺跡
 矢取地蔵
天長元年(824)、雨が降らず、干ばつ続きで困っていた朝廷は、東寺の官長空海と西寺の官長・守敏の2人に雨乞い対決をさせました。守敏は西寺金堂に籠り、三日三晩の寝ずの祈祷を行ったが雨が降らず、空海は神泉苑の竜神の祠で祈祷をするとにわかに暗雲が立ちこめ雨が降り出しました。空海は見事成功を収めたがこれを妬む者に矢を射かけられた。矢は地蔵に当った。空海の身代わりになった地蔵がこの小祠で祀られている。
 羅城門(らじょうもん)
羅城とは,古代都市を取り囲む城壁のことで,羅城門は羅城に開かれた門です。中国では外敵防禦のため堅固な羅城が築かれましたが,日本では藤原京以来,京城の南面の羅城門の両翼のみに造られただけで,周囲には簡単な垣(土塁)と溝が設けられていたようです。羅城門は芥川龍之介が「今昔物語集」を素材にして,羅城門の楼閣上に盗賊や焼け出された人々が住んでいて、人間の醜さと闇のさまを小説「羅生門」で描き話題となりました。この名作で広く有名になり、これを国際的映画監督黒沢明が三船敏郎主演で映画化して脚光を浴びました。
 西寺
延暦13年(794)第50代・桓武天皇の勅願により、平安京の造営が始まりました。平安京はその中央主道に朱雀大路が通り、その東側を左京、西側を右京としました。そして、朱雀大路の南端には羅城門と呼ばれる、幅36メートル、高さ21メートルの巨大な門が造られ、その門を入った右手(左京)に王城鎮護を目的として東寺が、左手(右京)に西寺が創建されました。弘仁11年(820)頃までには両寺とも完成し、南から南大門、中門、金堂、講堂、食堂の順に伽藍が並び、金堂や講堂の周りには僧坊が置かれていました。弘仁14年(823)、嵯峨天皇は東寺の管理を空海(弘法大師)に、西寺の管理を守敏(しゅびん)に委ねました。東寺は真言密教の根本道場として発展するのに対して、西寺には、全国の寺院や僧尼を統括する施設・僧綱所が置かれ、天皇の国忌を行う官寺として発展しました。空海と守敏はともに真言宗の僧であったことから、ライバル意識が強く、何かと事あるごとに対立していたと言われています。その後、空海が東寺を去り、高野山に入定してからは、荒廃が始まり、地震や落雷による火災や大風による倒壊などで寺は疲弊していきましたが、空海が、書に優れ、全国の土木事業や灌漑に尽力したことから、人々から英雄とされ、弘法大師信仰は民衆の間で絶大な支持を得ていました。天皇や公家に信頼されていた空海は、彼らの庇護を受け再興が成されて行きました。一方、西寺は官寺として発展していたのですが、平安朝の半ばに国家の財政が破綻したためそれに伴って全国にある官寺の多くは廃寺となり、西寺も例外なく、その運命を辿ることになったのです。
京都駅に戻り、駅ビル屋上に向い、京都市街をしばし眺める
 島原
  島原と吉原の遊女では簪の指方が違うと言われています。吉原は前髪の上でクロスするように簪を指しますが、島原は簪を左右平行に指してクロスさせないといいます。吉原遊女は遊廓からは外出禁止でしたが島原は楼主からの許可証あれば一時外出が許可されていました。また、吉原は遊女が格子戸の中に置かれて牢屋形式でしたが、島原は障子戸になっていて、重苦しさをなくしていました。
〔 本日の歩数 〕   25,359歩     15.3km