2018年11月02日(金)
  昨日、日没時に大阪淀屋橋に到着し、ホテルが中之島に沿った一角にあるので、まだ足元が見えるうちに近所を散歩した。近くには地名、駅名にある江戸時代の豪商「淀屋」の屋敷があった跡地や淀川の中之島に建っている。現在、大阪市役所、旧日本銀行大阪支店などがあり、懐かしい気持ちで見物した。40余年前、転勤で、大阪に勤務しているころ、たびたび近所に来たところだ。旧日銀を除いて他の建物は、すべて一新され、大阪の活力が復活しているような光景を目にした。市役所では、大阪万博の誘致を大坂を挙げて歓迎している様子がくみ取れた。大阪の10年後は輝くような都市に生まれ変わっているような予感を感じた。
淀屋橋
北浜
 
近松門左衛門・井原西鶴
 近松門左衛門墓
大阪城
 云わずと知れた豊臣秀吉が築いた天下の名城である。徳川の時代になってから、幕府が修築工事を行って寛永6年(1629)に完成した。その後、幕末の戊辰戦争時に大火や戦災で多くの楼閣は失うが、天守閣は大阪の象徴としてそびえ立ち今日の大阪城人気を支えている。
大手門
造幣局
 
大阪天満宮
 大阪夏の風物詩「天神まつり」は大阪天満宮の祭典である。毎年6月25日の本宮の夜は、大川(旧淀川)に多くの船が行き交う船渡御が行われ、奉納花火があがる。大川に映る篝火や提灯灯り、花火などの華麗な姿より火と水の祭典とも呼ばれている
 
 大融寺
  弘仁12年(821)に嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が創建したとされている。本尊の千手千眼観世音菩薩は嵯峨天皇の念持仏だったものという。その後、淳和天皇の代、時の左大臣源融(みなもとのとおる)が七堂伽藍を建立したと伝えられており、当時は大寺院で広大な寺域を持ち、大いに栄えたようである。太融寺の寺名は七道伽藍を建立した源融に由来しているとされている。 元和元年(1615)に大阪夏の陣で全焼、元禄年間には復興したとされているが、昭和20年(1945)の大空襲により一宇も残さず全焼したようである。ただ、本尊の千手千眼観世音菩薩は大空襲の直前に高野山の金剛峯寺に移していたため焼失を免れたとされている。
源融とは紫式部作「源氏物語」主人公・光源氏のモデルを云われている人物で、官位は河原左大臣と呼ばれるまで登りつめている。
百人一首にも登場し、下記の和歌を遺している
         陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに  乱れそめにしわれならなくに
         「訳詩」: 陸奥の信夫のもじずり 黒髪おどろに乱したようなその乱れ模様 それは今の私のこころだ
      あなたは私を疑っておいでなそうな なさけなや あなたよりほかの誰を思うて こんなにこころを乱すものか
 本尊は嵯峨天皇の念持仏で秘仏のため拝観できないが、本尊と同じ姿をした前立観音像が安置されている。また東北隅には朱塗りの宝塔が建てられていて不動堂の中に一願不動明王が安置されている。
 淀殿は浅井長政の長女で母は織田信長の妹お市の方である。後に、豊臣秀吉の側室となり、秀頼を生む。秀吉亡き後は大阪城で豊臣方の中心人物になるが、大阪夏の陣で戦いに敗れ、秀頼と共に自刃した元和元年(1615))とされている。 現存の墓は六重の石塔であるが元は九重の塔だったといわれている。この石塔は太平洋戦争時の空襲に遭っているが、大きな損傷をうけなかったようである。ただ、九重の塔であったのが六重の塔になったのは空襲による破損と思われる。
大阪駅前 
 
 大阪駅前より阪急電車乗場に移動し、京都線各駅停車で「崇禅寺」に向かう。30余年ぶりに渡った淀川が一段と幅広く感じた
 崇禅寺
崇禅寺は天平年間(729〜748)に法相宗の行基によって創建されました。約560年前、室町幕府6代将軍足利義教は嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺されました。赤松満祐はその後自害することになりますが、義教の首級を携えて播磨へ下る途中に崇禅寺森の観音堂付近にその首を埋めます。翌年、幕府はその地に菩提を弔うため、細川持賢に崇禅寺を再興させました。境内には「細川ガラシヤの墓」「義教の首塚」があります
 室町幕府6代将軍。天台座主となって義円と称していたが前5代将軍義量が跡継ぎのないまま若死にしたため、その後継者を石清水八幡宮の神くじ引きで選ぶ事になり、その結果、義円が選ばれた。義円は還俗して1429年将軍義教となった。将軍になってからは辣腕を振るって、鎌倉公方足利持氏を滅ぼし,守護大名の相続問題に干渉するなどの強権政治を行い、家臣達に恐怖心を与えていった。これがため次第に家臣達の恨みを買うようになり,1441年、室町幕府、侍所頭人 赤松満祐に暗殺された(嘉吉の乱)
  明智光秀の娘。細川忠興の妻。本名たま,ガラシャは洗礼名(恩寵・神の恵みの意)織田信長の命により,忠興に嫁し(1578年),3子を産んだ。本能寺の変により離縁されたが,豊臣秀吉のはからいで復縁。関ヶ原の戦の際,石田三成に人質として大坂城入城を強要されたが承知せず,邸を囲まれ殉節。 
【イエズス会の記録】
ガラシャはその死を受け入れ、強い勇気を持って、主の御旨に従いその手にあるものとして亡くなった。
 〔本日の歩数〕    27,420 歩       16.4 km