2020年 6月1日(日) その1 |
近江八幡ぶらり散歩 |
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日牟禮八幡宮 |
日牟禮八幡宮 (ひむれはちまんぐう)
西暦 131年、成務天皇が即位の時、武内宿禰に命じてこの地に大国主神を祀ったのが草創とされている古社である。その後、応神天皇や持統天皇のときに神殿が建てられ、左大臣・藤原不比等によって比牟禮社と改称されたという。そして、足利将軍家や六角氏より寄進を受け、豊臣秀次のとき八幡山城の築城とともに、現在地に勧請されたが、秀次失脚その後の城主京極高次が大津に移転後、城は廃城となった。しかし、城下町は近江商人の町として発展し、当社は守護神として崇敬を集めた。慶長5年(1600)9月18日、徳川家康が関ヶ原の戦い後に武運長久の祈願を込めて参詣し、御供領五十石の寄附を受けた。後に、徳川家光や家綱も御朱印を下している。そして
明治9年に郷社、大正5年には県社に列せられ、昭和41年、社名を日牟禮八幡宮と改称して今日に至っている。滋賀県無形民俗文化財の指定を受けた左義長まつりと八幡まつりは毎年盛大に行われる。
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八幡堀界隈 |
八幡堀
天正13年(1585)、四国征伐で軍功を挙げた豊臣秀次は43万石を与えられ、近江国八幡山に城を築き、城下町を開町した。その際、琵琶湖畔を埋め立て、八幡山周囲に八幡堀を開削した。自由商業都市を目指し安土城下などの商人・職人を呼び寄せ、碁盤上に区切った城下町に居住区を設けた。堀の北側を武士、南側を町人の居住区域とし、さらに、町人の居住区の西を商人、北東を職人の居住区とした。堀は、八幡山城の防衛と湖上交通による物流の役割を兼ね備え、城下町の発展・繁栄に大きく寄与した。文禄4年(1595)、秀次の自害を受けて八幡山城は廃城となったが、城下町は商家町として存続し、近江商人により繁栄を極めた。近江商人は八幡堀の地の利を活かし、地場産物の畳表、蚊帳、米、酒などを陸路や水路を利用して各地へ搬出し、各地の産物を持ち帰り、再び各地へ送り出すといった「諸国産物回し」と呼ばれる商法によって、各地の産業振興に貢献した。また、近江商人の商売哲学「買い手よし、売り手よし、世間よしの三方よし」は、他国での商売を通じて生まれた概念である。建造当初から、堀には「背割り」と呼ばれる排水路による下水システムがあり、堀に溜まった汚泥は、船の運航にさしさわる前に随時浚渫され、近隣の田畑の肥料として使われた。また、その田の粘土を使って八幡瓦が作られた。このように八幡堀は町の活性化に大きな貢献を成し遂げてきた。 |
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地場産業の八幡瓦を主体に、世界各国の瓦を紹介する展示館 |
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江戸時代初期に創建された曹洞宗寺院・蓮照寺 。写真左・山門、右・本堂、手前は鐘楼 |
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