泉涌寺 & その支院・塔頭
泉涌寺
 真言宗泉涌寺派の総本山。皇室との関連が深く御寺(みてら)とも呼ばれる。寺伝によれば、空海が天長年間(824-34)ここに草庵を結び、法輪寺としたのが起こり。1218年(建保6)月輪大師が造営するにあたり、清泉が涌き泉涌寺と改められた。四条天皇以来14代の天皇陵をはじめ、皇妃、親王陵墓など39の陵墓がある。仏殿(重文)は、徳川家綱の再建で、運慶派作と伝える釈迦、弥陀、弥勒の三尊を安置。天井の竜は狩野探幽筆。霊明殿に歴代天皇、皇后、親王の尊牌を奉安。泉涌寺勧縁疏(国宝)などの文化財を所蔵。国内最大の涅槃図がある。洛陽三十三観音霊場20番札所の楊貴妃観音(重文)、1月の成人の日に行われる七福神巡りは有名。建立:1218(建保6)年
 (京都観光NAVIより)




 孝明天皇(こうめいてんのう, 1831-1867)
江戸時代末期の第121代天皇です。幕末の激動期に即位し、日本の政治と外交に大きな影響を与えました。1831年に仁孝天皇の第一皇子として生まれ、1846年に即位しました。即位当時、日本は鎖国政策を続けていましたが、1853年にペリーが来航し、開国を迫る圧力が強まりました。孝明天皇は一貫して攘夷(外国勢力を排除する政策)を支持し、幕府に対して開国に慎重な姿勢を求めました。特に、1858年に大老・井伊直弼がアメリカなどとの日米修好通商条約を締結した際、天皇の許可を得ないことに強く反発し、「勅許なき条約調印」に不満を抱きました。1863年には「攘夷実行の勅命」を幕府に出し、尊王攘夷運動を推進しましたが、幕府は実行できず、攘夷派の志士たちは天皇の意向を利用して倒幕運動を加速させました。しかし、
孝明天皇自身は幕府を支持し倒幕には反対していました。1866年に幕府の将軍家茂が死去し幕府の力が弱まる中、孝明天皇は翌1867年に突然崩御しました。崩御の原因については天然痘とされていますが、毒殺説も根強く残っています。孝明天皇の死後、息子の明治天皇が即位し、王政復古の大号令によって明治維新が始まりました。孝明天皇の攘夷思想は幕末の政治に大きな影響を与えましたが最終的には日本は近代化の道を進むことになりました。
光格天皇(在位:1779 - 1817)は、後桃園天皇の急逝により、わずか8歳で即位しました。閑院宮家の出身であり、幕府の許可を得て皇位を継承しました。彼の治世においては、朝廷の権威回復に尽力し、幕府に対して積極的に意見を述べる姿勢を見せました。その主なものを列挙しますと

1.
尊号一件(1789年)
これは光格天皇が、退位した父である典仁(のりひと)親王に「太上天皇(上皇)」の尊号を贈ろうとした問題です。朝廷はこれを幕府に要請しましたが、老中・
松平定信は「親王が天皇になったわけではないため、上皇の称号を与えるのは前例がない」として拒否しました。光格天皇は強く反発し、一時的に幕府との関係が緊張しましたが、最終的には幕府の意向に従い、尊号は与えられませんでした。

2.
朝廷の財政再建
光格天皇は、皇室財政の困窮を理由に幕府に財政的支援を要請しました。これにより幕府から朝廷へ経済的援助が行われることになりました。さらに、天皇自身も倹約に努め、朝廷財政を立て直そうとしました。

3.
公家の待遇改善
江戸時代の朝廷は幕府の統制下にあり、公家の地位は低下していました。光格天皇は、公家の待遇改善や官位昇進の促進を幕府に働きかけました。これにより、一部の公家の昇進が認められました。

4.
学問・文化の振興
幕府に対し、国学や儒学の奨励を求めました。光格天皇自身も学問を重んじ、『群書類従』の編纂や古典の研究を推奨しました。朝廷として文化的な権威を取り戻す狙いがありました。

5.
異国船対応
18世紀後半には外国船の来航が増え、天皇は幕府に対して国防意識を持つよう要請しました。特に蝦夷地(北海道)周辺でのロシアの動きに対し、警戒を促しました。

また、
光格天皇は学問を重視し、特に儒学や国学に深い関心を持っていました。彼の影響により、国学者の本居宣長が重視され、古典研究(国学)が発展しました。また、漢詩や和歌にも精通し、宮中の文化活動を盛んにしました。1817年、光格天皇は子の仁孝天皇に譲位し、自らは太上天皇(上皇)として院政を行いました。これは200年以上ぶりの譲位であり、明治以降の天皇制にも影響を与えました。晩年も学問や政治に関心を持ち続け、1840年に崩御しました。光格天皇の改革的な姿勢は、幕末の尊王攘夷運動や明治維新にも影響を与えたとされています。
 
【 悲田院 】
悲田院
悲田院(ひでんいん)とは身寄りのない子供や老人・貧しい人を収容する福祉施設であるが、平安京にはその悲田院が東西の二つあった。しかし、やがて両方とも消滅してしまった。延慶元年(1308年)、無人如導が一条安居院に天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺を創建する。そこにかつての福祉施設であった西悲田院の名跡を引き継いで寺院名を悲田院とした。室町時代になると後花園天皇は悲田院を勅願寺とした。この縁によって当寺の歴代の住職は、代々天皇の綸旨を賜わって、御所への紫衣参内が許された。後花園天皇の崩御の際には当寺で葬儀や荼毘が行なわれた。正保2年(1645年)、如周恵公が摂津国高槻藩主永井直清の帰依を受け、悲田院を現在地に移転させる。以後、高槻藩の庇護を受けて栄える。1885年(明治18年)、泉涌寺塔頭寿命院と合併し、現在に至る。寺には快慶作と伝えられる宝冠阿弥陀如来坐像や逆手の阿弥陀如来立像があり、また土佐光起・土佐光成父子による土佐派や、橋本関雪の襖絵がある。
【  戒光寺  】
 戒光寺
 戒光寺は泉涌寺塔頭の一つで、身代り丈六(たけろく)さんと呼ばれている。本尊は釈迦如来像。
泉山七福神の第2番、弁財天は金銭を融通するとして商売繁盛の信仰が篤い。1868年、幕末の油小路事件で
新撰組に斬殺された御陵衛士(高台寺党)盟主・
伊東甲子太郎、藤堂平助、毛内有之助、服部武雄の4名は
当寺に改葬され盛大な葬儀が執り行われた。
【 即成院 】
即成院は泉涌寺塔頭の一つである
那須与一の伝説
  元暦2年(1185)2月、
源義経は四国屋島に陣をしいていた平氏を背後から攻めたて、慌てた平氏は船で海に逃れ海辺の源氏と対峙することになりました。夕暮れになったころ、沖から立派に飾った一艘の小舟が近づいて来ました。見ると美しく着飾った女性が、日の丸を描いた扇を竿の先端につけて立っています。「この扇を弓で射落としてみよ」という挑戦でした。義経は、弓の名手那須与一を呼び寄せ「あの扇を射て」と命じました。与一は何度も辞退しましたが、聞き入れられず意を決して馬を海中に乗り入れました。このとき与一は弱冠20歳。「平家物語」では、このくだりをおおよそ次のように書いています。
「時は2月18日、午後6時頃のことだった。折から北風が激しく吹き荒れ、岸を打つ波も高かった。舟は揺り上げられ揺り戻されているので、扇は少しも静止していない。沖には平氏が一面に船を並べ、陸では源氏がくつわを並べて見守っている。与一は目を閉じて「南無八幡大菩薩、とりわけわが国の神々、日光権現、宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真ん中を射させてくれ給え。これを射損じる位ならば、弓切り折り自害して、人に二度と顔を向けられず。今一度本国へ向かへんと思し召さば、この矢外させ給うな」と念じて目を見開いてみると、風はいくぶん弱まり的の扇も射やすくなっているではないか。与一は鏑矢を取ってつがえ、十分に引き絞ってひょうと放った。子兵とはいいながら、矢は十二束三伏で弓は強い。鏑矢は、浦一体に鳴り響くほどに長いうなりをたてながら、正確に扇の要から一寸ほど離れたところを射切った。鏑矢はそのまま飛んで海に落ちたが、扇は空に舞い上がったのち春風に一もみ二もみもまれて、さっと海に散り落ちた。紅色の扇は夕日のように輝いて白波の上に漂い、浮き沈みする。沖の平氏も陸の源氏も、これには皆等しく感動し、拍手で称えた」
屋島の戦いの後、平氏は壇ノ浦の戦い(3月24日)にも破れ、滅んでいきました。与一は扇の的を射た褒美として、源頼朝より那須氏の総領(後継ぎ)の地位と領地として五カ国内の荘園を与えられたと伝えられています。また、与一は文治3年(1187)、それまで平氏に味方し行動を共にしていた兄9人と十郎に那須各地を分地し、これ以降那須一族は那須十氏として本家に仕え、それぞれの地位を築いていったと伝えられています。与一は京都伏見にて病死し、即成院に埋葬された。 
今熊野観音寺
今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)
京都市東山区にある真言宗泉涌寺派の寺院で、西国三十三所観音霊場の第十五番札所です。特に「頭の観音様」として信仰され、頭痛平癒や学業成就を願う人々が訪れます。

1. 今熊野観音寺の特長
① 「頭の観音」としての信仰

本尊は 十一面観世音菩薩 で、特に 頭痛封じ や 学業成就、ボケ封じ に霊験があるとされています。
「頭の観音」として信仰される理由は、十一面観音の持つ智慧と慈悲が、人々の悩みを取り除くとされているからです。
② 泉涌寺の塔頭(たっちゅう)
泉涌寺(せんにゅうじ) は皇室の菩提寺として知られ、今熊野観音寺もその塔頭の一つとして歴史を持っています。

③ 紅葉の名所
境内は自然に囲まれ、特に秋には美しい紅葉が楽しめるスポットとしても人気です。

④ 西国三十三所巡礼の札所
西国三十三所観音巡礼の第十五番札所であり、巡礼者が多く訪れます。

2. 今熊野観音寺の縁起
① 弘法大師(空海)の創建

平安時代(弘仁年間・9世紀初頭) に弘法大師(空海)が開創したと伝わります。
空海が熊野権現のお告げを受け、この地に観音像を安置したことが始まりとされています。

② 鎌倉時代の再興
鎌倉時代 に入ると、後白河法皇の信仰が篤く、再興されました。
その際に、多くの貴族や庶民が参詣し、広く信仰を集めるようになりました。

③ 「頭の観音」信仰の広まり
古くから頭痛平癒の霊験があるとされ、近世以降は受験生や学者、知的活動を行う人々の信仰も集めるようになりました。
 
一条天皇妃定子皇后廟
 一条天皇の皇后・藤原定子(ふじわらのていし)(977年~1001年)
関白
藤原道隆の娘で、一条天皇の皇后となりました。定子は聡明で教養が高く、宮中では非常に魅力的な存在でした。彼女の宮廷は明るく、知的で風雅な雰囲気に満ちており、文化的なサロンのような場であったと伝えられています。定子は気さくで優しく、機知に富んだ女性であったとも言われ、女房たちとの交流を大切にしました。そのため、多くの才女が彼女のもとに集い、特に清少納言が仕えたことで有名です。

藤原定子にまつわるエピソード
1. 定子は和歌をたしなみ、文化的な素養が豊かでした。あるとき、宮中で桜が美しく咲いているのを見て、「この世に絶えて桜のなかりせば」(この世に桜がなかったら、春の訪れを誰が心待ちにするだろう)と詠んだとされます。この歌に対して、清少納言が「桜がなければ、春を心待ちにすることもないのでは?」と返答し、定子はその機知を喜んだと言われています。

2. 家柄の衰退と悲劇
定子の父・
藤原道隆が亡くなると、その後を継いだ弟・藤原道長の権勢が強まり、定子の立場は厳しくなりました。父の死後、兄の藤原伊周(これちか)が権力闘争に敗れたことで、定子の宮中での地位も危うくなり、ついには皇后の座を追われることになります。不遇の中で一条天皇の子を出産しますが、その後、24歳という若さで亡くなってしまいます。この悲劇的な最期は、当時の権力闘争の厳しさを物語るものです。

3.
清少納言との関係
清少納言(966年頃~1025年頃)は、定子に仕えた女房であり、定子との関係は非常に親密でした。
『枕草子』には、定子への深い敬愛の念が感じられる記述が多く見られます。清少納言は定子の聡明さや美しさを称賛し、彼女の宮廷での日々を「春のような温かさに満ちたもの」と表現しています。定子もまた清少納言の才知を高く評価し、互いに機知に富んだ会話を交わすことを楽しんでいたようです。

『枕草子』には、定子が清少納言のユーモアを楽しみ、時には軽妙なやりとりを繰り広げた様子が描かれています。例えば、清少納言が漢詩の知識を誇った際、定子がさりげなく試すような言葉を投げかけ、彼女の知性を引き出す場面「香炉峰の雪」が有名です。中宮・定子が「少納言よ。香炉峰の雪はどんなであろうか」と問いかけました。そのお言葉を聞いた納言は、他の女房に格子を上げさせたうえで、御簾を高く巻き上げたのでした。それを見た中宮はニッコリと微笑まれたと言います。周囲にいる女房たちは「(白楽天の)その詩句は知っていて、歌などにまで読み込むのだけれど、中宮様の謎かけとは思いもしなかった。すぐに御簾を上げた少納言のように、やはり、中宮様にお仕えする人としては、そうあるべきなのだ」と納言の対応に感心したということです。