西本願寺
 西本願寺と東本願寺
西本願寺と東本願寺は、親鸞聖人を宗祖とした本願寺という一つの寺院でしたが、現在では、西本願寺は浄土真宗本願寺派、東本願寺は真宗大谷派と分かれています。その分かれた原因を辿ると石山合戦まで遡ります。 1570年から1580年までの10年間、織田信長と石山本願寺が敵対したのが石山合戦です。全国各地の本願寺門徒が起こす一向一揆に、信長は大変苦戦しました。10年も費やしたこの戦のために、信長は天下統一のチャンスを失ったとも言われています。信長は、最後には正親天皇を仲裁にたて和議を求めましたのですが、この時、和議に応じるか抗戦するかで本願寺内の意見が分かれたのです。第11世宗主の顕如(けんにょ)と次男の准如(じゅんにょ)は和議を受け入れようとしたのですが、長男の教如(きょうにょ)は徹底抗戦を主張し、両者は対立。ついには親子の関係を断つ事にまでこじれてしまい、顕如は和歌山の鷺森に隠遁してしまいました。豊臣秀吉の治世になり、1591年、顕如は秀吉から七条堀川に土地の寄進を受け、御影堂と阿弥陀堂を建設。これが現在の西本願寺です。一方、教如は本能寺の変で信長が亡くなると義絶を解かれ、本願寺を継承します。しかし、石山合戦で自分に賛同した者を重要視したため、本願寺内部に対立が起こります。そして、秀吉の後押しもあり、弟の准如が正式に本願寺の12代宗主を継承することになったのです。それでも本願寺内で力を持っていた教如は、徳川家康に接近し、1602年、七条烏丸に寺地の寄進を受けて、御影堂と阿弥陀堂を建設します。これが東本願寺 真宗大谷派の始まりで、ここから、教如の東本願寺と准如の西本願寺が分裂することになり、今日に至っているのです。
精緻で美しい色彩で描かれている彫刻を眺めていると日が暮れるのも忘れてしまいます
龍谷大学
龍谷大学は1922年に設置された日本の私立大学である。江戸時代寛永16年(1639)、西本願寺13代宗主良如が、本山本願寺阿弥陀堂の北に僧侶の教育機関として設立した学寮を起源としている。建学の精神(校訓・理念・学是)は、浄土真宗の精神であり、真実を求め、真実に生き、真実を顕かにする人間の育成を目指すとしてあり、2012年「You, Unlimited」が大学のブランドスローガンとして制定されている。
興正寺
興正寺
親鸞聖人を開祖とし、真宗興正派の本山です。山号は円頓山(えんとんざん)。文明年間(1469-87)佛光寺の14世経豪が本願寺8世の蓮如に帰依し、佛光寺を弟に譲り、名を蓮教と改め、山科に一宇を建立したのが起こりです。佛光寺の旧称によって興正寺(興隆正法寺)と称しました。江戸時代には西本願寺教団に属していましたが、たびたび別立しようとする動きがあり、明治9年(1876)全国220余ヶ寺を率いて西本願寺より独立し、一派を形成しました。日本に仏教をひろめた聖徳太子の事績にちなみ「正しい法を興しさかえさす」との意味が込められています。