後鳥羽院大原陵墓
後鳥羽院
 鎌倉初期(在位1183~1198)の第82代天皇。(1180~1239)
高倉天皇を父とし、七条院坊門殖子を母とする。1183年に平氏が安徳天皇を擁して西走した後、祖父後白河法皇の院政のもとで天皇に即位しました。1192年法皇没後は、関白の九条兼実、そして法皇の側近であった源通親が政権を握りましたが、建仁2年(1202)通親が没すると、後鳥羽天皇は上皇となり、九条家や通親の全盛下で不遇であった人々も重用することを行い、すべての貴族に支持される体制をつくりました。そして、土御門天皇に譲位した後は自らが政治を執り、1198年~1221年にかけて院政を行いました。この間、武芸振興に注力し、西面の武士を新設して武力を充実を図り、公家勢力の拡充に尽力するとともに、鎌倉の将軍源実朝との関係を密にして公武の融和にも努めました。このことは生母の実弟である坊門信清の娘を実朝の妻として鎌倉に下した事からも伺えます。上皇は常日頃「武者の世には帝王にも、武芸のたしなみや軍略についても理解が必要である」との考えのもと、水練。、相撲、狩猟などをたしなみ、刀剣の製作・鑑定にも精通していたと伝えられています。
  文化・芸能面でも優れた才能を発揮し、とくに和歌は群を抜いていました。宮中に「和歌所」を設置し、すぐれた歌人を集め、元久2年(1205)に「新古今和歌集」を勅撰し、隠岐配流後に至るまでみずから追加・削除行ったとされています。それ以外に「後鳥羽院御集」「遠島百首」等の歌集、日記、仏書、有職故実書などもあります。さらに、蹴鞠・琵琶・奏笙、笛などの芸能分野にも精通している才覚万能才の域にある人物でした。、多数の御領・荘園を所有し、豊かな財力によって、各所に邸宅を造り、院政期間における邸宅の造営・移転は18回を数えています。特に、水無瀬、鳥羽、宇治離宮には壮麗な庭園を造営し、そこに赴いてしばしば遊宴を行ったと伝えられております。洛中・洛外の社寺・名勝への行幸も多く、特に熊野神宮への信仰は篤く、参詣は約30回に及んでいます。

建保7年(1219)1月27日、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の式において将軍実朝が暗殺されると鎌倉への不信感が強まり、子順徳天皇らと組んで倒幕を計画、1221年倒幕の院宣を発しました。しかし、幕府の大軍に完敗(永久の乱)して隠岐に流され、その地で没しました。同地で火葬され、遺骨の一部は仁治2年(1241)大原勝林院法華堂に安置され、現在、同地区大原陵に埋葬されました。(享年 59歳)
     

       


                                                                                                                                                      * 写真は一部、web上から拝用させていただいています