堂島 ~ 大阪天満宮
JR福島駅を下車して、国道41号線を南下して10分ほど歩くと左手に、朝日放送のABCホールがある。このビルを左折して、
右側の土手を上がるとビル群に沿って堂島川が青々とした川面を輝かせて流れているのが見える。
 
 堂島浜通りを進んだ僅かな所に立派な石碑が建っている。「福澤諭吉誕生地記念碑」である。
江戸時代この場所は豊前中津藩の蔵屋敷があった場所で、福沢諭吉はこの地で生まれたのです。
1858年に慶應義塾(旧蘭学塾)を創設し、西洋の学問や思想を日本に広めることに尽力しました。
彼はまた、1875年に商法講習所(現一橋大学)、1902年に神戸商業講習所(現神戸商業高校)
の創設にも関わり、日本の近代教育の基礎を築きました。
福沢諭吉は、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」で始まる『学問の
すすめ
』で、生まれながらに上下の差はないのに、貧富の差や身分の差ができるのは、
学問があるかないかが原因であると訴え、学ぶことがいかに大切かを訴えています。

●そして次のような言葉を残しています。
1「賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによって出来るものなり」
2「読書は学問の術であり、学問は事業の術である。」
3「学問は米をつきながらも出来るものなり。」
4「活用なき学問は、無学に等しい。」
5「一家は習慣の学校なり。父母は習慣の教師なり。」
6「学問の本趣意は、読書に非ず、精神の働きに在り。」

福沢諭吉は、
「1」で学ぶことの大切さを訴え、
「2」で学ぶ術の一つとして読書は重要であり、学ぶことは自立につながると説き、
「3」で学問はいつでも、どこでも、どんな状況下であろうと学ぶ意欲と工夫があれば
できると説明し、
「4」で学んだことは世(社会)に生かさなければ意味をなさいと語り、
「5」で子供の規範意識、人間性の醸成は身近にいる大人たちの責任とし家庭教育
の重要性を訴求し
「6」で読書を通して知識を得るだけでは不十分で、感じ、考え、深い洞察を通して
自己を成長させることが必要であると進言しています。

●これらの言葉から、私は「学ぶ」という行為は、「利他的」な目的を持ち、いかに
「主体的」に行えるかが大切であると訴求しました。また、会津藩士の逸話として
紹介した什の掟も評価しています
 
つづいて歩むと「蛸の松」の碑が建っている。これは江戸時代、諸藩の蔵屋敷が建ち並び屋敷の白壁と川面に映る松の景色を楽しんだそうです。中でも、久留米藩と広島藩の境の浜に立つ松は、枝振りが蛸の泳ぐ姿に似ていたことから「蛸の松」と呼ばれ親しまれていました。とりわけ、満月の夕べや雪の朝の眺めはとりわけ美しく絶賛されていたそうです。蛸の松碑の対岸に「雙松岡塾跡」があります。 さらに、堂島浜通りを進むと五代友厚が設立した製藍所工場「西朝陽館跡」や「大村藩蔵屋敷跡」の碑があります。
雙松岡塾は、文久元(1861)年に創立された漢学塾で、尊王攘夷を鼓舞して、後の明治維新の原動力の一つになりました。この塾は、松林飯山(大村藩士)、松本奎堂(刈谷藩士)、岡鹿門(仙台藩士)の3人によって設立され、彼らの名前から一字ずつ取って「雙松岡」という塾名が付けられました。この3名は神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関昌平坂学問所の秀才でした。文久元年(1861年)11月、玉江橋と田蓑橋の二橋の間にあって堂島川の川面に面して建っていた一軒家でこの塾を開き、尊王攘夷を鼓吹し名声が大いに上がりました。しかし最後は幕府の役人から危険視され、圧迫を受けたため、翌年5月解散し大坂の地を去り、それぞれの藩に帰り、藩政改革、尊王攘夷の活動を起こし、ましたが、大きな波は起こせず、志半ばにして、松林、松本は、若くして保守派の凶刃に倒れました。岡のみ明治に生き延び天寿を全うしました。
 
そして、堂島浜通りで、ひときわ目立つのは、堂島米市場跡碑一粒の米碑です。
まさに、江戸時代初期から、明治・大正・昭和に至るまで、この川沿い周辺一帯で多くの
米穀取引に関わる商人たちが毎日、せわしく行き交った場所です。
その光景が忍ばれます。  
ここから、1ブロックほど行くと大阪市道南北線(四つ橋筋)に交差するが、その左角のビルが「サントリー本社ビル」です」。四つ橋筋を横切って、堂島浜通りを進むと、中之島ガーデンブリッジがあり、橋の中央に、イベント「水都大阪2009」で、話題となった彫刻「そよ風」をしばし鑑賞しました。 
                                            つづく