適塾
 適塾(てきじゅく)
蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に大坂・船場に開いた蘭学の私塾。
正式には適々斎塾(てきてきさいじゅく)という。緒方洪庵の号である「適々斎」が名の由来である。
幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く輩出しています。ここの門人には、
慶應義塾を開いた福沢諭吉、彰義隊殲滅作戦を指揮し、戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、
東京招魂社(靖国神社)の建立を献策した大村益次郎、日本の公衆衛生の基礎を築いた長与専斎
そして漫画家・手塚治虫の曾祖父である手塚良仙もこの塾の輩出である。
現在の大阪大学の前身とされている。
文久2年(1862)江戸幕府は、緒方洪庵を江戸に召し出し奥医師とすると同時に西洋医学所の頭
取としました。洪庵は病身を顧みず、幕府の要請に応えて出仕しましたが、翌1863年、江戸で病死しまし
た。享年54歳でした。墓所は文京区高林寺。 
銅座の跡
 適塾に隣接する一角に銅座の跡碑が立っている。ここは銅が輸出品の時代、銅集めの役所があったところで、明和3年(1766)銅の管理を行う銅座がここに置かれました。江戸時代、銅は重要な輸出品で、大坂は当時の銅精錬業の中心でした。諸国の銅山より産出した粗銅は銅座がすべて買い上げ、大坂で技術を競っていた銅吹仲間に精錬させた後、再び集めて海路長崎に送り、輸出されました。また銅の密売を防ぐために、古銅類買い上げの精細な規定がつくられ、銅器の破片に至るまで管理されていました。幕臣であり、狂歌師としても江戸で評判を得ていた太田南畝は、享和元年(1801)から大坂銅座に転勤となり5年余赴任していました。南畝の別名、蜀山人中国で銅山を「蜀山」といったのに因んで、この号を使っていました
 
                                                                 つづく