岐阜城公園 

 岐阜公園三重塔
  金華山山麓に建つ岐阜公園三重塔は、木々の緑の中に朱色がひときわ鮮やかに映え、岐阜公園のランドマークとして市民の誇りとして親しまれています。この三重塔は、大正天皇の即位を祝う、御大典記念事業として企画され、市民から寄付を募り、大正6年(1917)に岐阜市が建立したものです。塔の考案は、日本建築史学の創始者と言われ、明治神宮や築地本願寺などを設計した伊東忠太です。彼は建築界で初めて文化勲章を受章しています。また、場所の選定は日本画の大家川合玉堂が行っています。塔は創建後、1世紀を超えたことで、いたる所に損傷や老朽化が目立つようになり、平成26年に修復工事が開始され、29年に修復工事が無事終了しています。現在、塔の建つ敷地を含む金華山一帯の区域は国指定史跡にされています。
ケーブルカーより望む岐阜城天守閣 ケーブルカー山頂駅
 満開となった山桜 ケーブルカーより、眼下に見える信長の居館跡
岐阜公園 その2
 
  
板垣退助は自由民権運動政党、自由党総理として岐阜に遊説した際、この銅像の近くにあった中教院講堂での懇親会に出席していたとき、板垣は暴漢に襲われて重傷を負った。このとき板垣退助は「板垣死すとも自由は死なず」と名言を叫んだことが、事件とともに歴史に残っている。この「板垣刺される!」の知らせは直ちに名古屋の病院長をしていた後藤新平に届いた。新平は若干の看護員とともに、馳せ参じて、現場に急行し、必至の看護を行った結果、板垣は一命を救われた。看護の間、板垣は新平と会話を交わす間、若干27歳の新平を気に入り、新平に政治家としての素養と力量があることを見抜き政界入りを薦めた。この時は断り、そのまま月日が流れたが、後年、陸軍少将の児玉源太郎が台湾総督に任じられると、児玉は後藤を招聘し台湾提督衛生局長に任命して赴任させた。後藤新平は台湾の下水道整備や全土に保健衛生局を設置させた。その結果、瞬く間に台湾から伝染病、風土病は激減し、人口は飛躍的に増えていった。こうした多大なる実績をあげた後藤はその後は、満州鉄道総裁、さらに関東大震災の復興時には震災復興委員長を任命され、震災後の東京を近代的な都市に変貌させたのである。今日、世界に冠たる技術を誇る鉄道新幹線は後藤新平が撒いた種から産まれた日本の宝とも言われている。一介の地方都市病院の院長から日本国政府内務大臣にまで栄転 した後藤新平の始まりはこの岐阜から始まったのです
織田信長は幸若舞『敦盛』を愛し、
人間(じんかん)五十年下天の内をくらぶれば夢のごとくなり
部分をよく舞っていた
天下布武

織田信長は、「武士の道の心」すなわち、
「信・義・忠」を重んじ、争いの無い泰平の世の中を創造したいとの
訓を掲げて戦国の世を戦い、民の幸せを願い生き抜いていた

                                                                                                                                                     つづく