西尾城趾 

   西尾城の歴史は、承久3年(1221)に起きた「承久の乱」の功績によって「三河国」の守護となった足利義氏が築いた西条城から始まります。西条城は、足利義氏の長男「足利長氏」(おさうじ)の居城として築城されました。足利長氏は長男でしたが、足利家の家督を相続せず、姓を「吉良」(きら)へと変更しました。その後、吉良家は代々「吉良荘」と呼ばれた西尾の地を治めました。西尾城本丸跡に鎮座する「御劔八幡宮」(みつるぎ)は、足利義氏によって西条城築城の際に松山(山下町)から移され、源氏に伝わる宝剣「髭切」(ひげきり)と白旗一流(源氏が掲げた白旗1本)を奉納されたと伝わる神社です。御劔八幡宮は歴代城主からの尊崇が篤く、社殿前には城主から寄進された石灯籠が立ち並んでいます。
 神社本殿・拝殿は、延宝6年(678)に当時の西尾城主であった土井利長によって再建されました。戦国時代の西尾城主は永禄3(1560)には、今川義元の配下であった牧野成定が入城した。翌、永禄4年(1561)には徳川家康の家臣であった酒井正親が西尾城を攻め落とし、城主となりました。酒井正親の次男酒井重忠の時代には、徳川家康の命によって西尾城の改修を実施し、東の丸帯曲輪(おびぐるわ)の拡張、堀や石塁、櫓内、天守が造成され、現代に伝わる西尾城の基礎が形作られました。天正18(1590)には、豊臣秀吉に仕えた田中吉政が岡崎城主となり、兼任して西尾城に入城しました。田中吉政の時代にも三之丸の拡張や、大手黒門、新門、櫓門の建設など、再整備が行われました。

江戸時代の西尾城主
  慶長5年(1600)に勃発した「関ヶ原の戦い」において功を挙げた酒井忠次の次男本多康俊が西尾城に禄高20,000石の城主として入城しました。本多康俊以降、西尾城は譜代大名が城主を務めるようになり、松平成重本多俊次太田資宗へと移っていきます。太田資宗(すけむね)は、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光に仕えた大名。江戸幕府の要職である若年寄の前身である六人衆のひとりで、幕府の殿中礼式などを司った奏者番を務めた人物です。寛永18年(1641)、太田資宗は城下町を囲む外郭である「総構え」の工事に着手します。この工事は、のちに城主となった井伊直好が引き継ぎ、明暦元年(1655)頃完成しました。その後西尾城主は、井伊直好ののち、増山氏、土井氏、三浦氏と続きました。明和元年(1764)には、三河国加茂郡大給(おぎゅう)を領していた大給松平家出身の松平乗佑(のりすけ)が入城。西尾藩が60,000石となったのは、この松平乗佑の時代です。その後の西尾城は、明治維新を迎えるまで代々大給松平家が城主を務めます。最後の藩主となったのは、5代「松平乗秩」(のりつね)でした。明治時代に入り、明治4年(1871)の廃藩置県によって西尾城は西尾県庁となり、翌年に建物は解体。明治11年(1878)に廃城となりました。 
”城下町 西尾” は、三河の小京都とも呼ばれ、市内の界隈には江戸の名残を留めています

                                                                                                                                                     つづく