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浮月楼 |
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浮月楼 |
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御祝義翁喜寿 |
2021年10月10日 名古屋に住む長男一家および横浜市金沢区に居る長女一家そして
妻まり子が静岡市葵区の「浮月楼」で義翁が喜寿を迎えたお祝いをしてくれました。 |
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宝台院 |
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宝台院は、徳川家康公の側室お愛の方(西郷の局)の菩提寺です。西郷の局は、27歳より家康公に仕え、浜松城にあり、三方ヶ原の戦い、設楽原の戦い、小牧長久手の戦い等、家康公が最も苦難にあった時の浜松城の台所を仕切った人で、三河武士団に最も人望のあった糟糠の妻だった方です。また、二代将軍徳川秀忠公、尾張の松平忠吉公の生母でもあります。この寺は、15代将軍だった德川慶喜が、1年間謹慎していた所でもあります。 |
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慶喜公、宝台院に謹慎
明治元年7月、第15代将軍慶喜公、御謹慎の身となり、同月19日、水戸を出発して銚子港に到着し、同21日播龍艦に乗船して、23日に清水港に到着しました。海路にて移動したのは、上野彰義隊の戦いの興奮も冷めない江戸を通ることが極めて危険な事であった理由からです。この時、目付(のちに駿府奉行)の中台信太郎がこれを出迎え、また、精鋭部隊松岡万以下50名の厳重な護衛が付いて、駿府に向いました。慶喜公が討幕派、旧幕臣の双方から命を狙われる重要人物であった事情に加えて、無政府状態とも言うべき当時の駿府の町の状況がこのような物々しい警戒態勢を必要としていました。一行は、夕刻には宝台院に入りましたが、慶喜公の駿府移住は秘密裏行なわれ、町民には一切知らされていませんでした。慶喜公の駿府入りが町触れで知らされたのは、その5日後の28日のことでした。尚、宝台院を慶喜公謹慎の場所に撰んだのは、元若年寄 大久保一翁でした。彼は駿府町奉行の経験もあって、この町を熟知しており、德川第2代将軍秀忠公の生母西郷局が葬られた宝台院こそ、慶喜公が落ち着いて過ごせる場所と考えたと思われます。以来、一翁は、翌年10月に紺屋町の代官屋敷(浮月楼)に移転するまでに一年余り、誠心誠意の奉公をしました。宝台院の謹慎の部屋は10畳と6畳の2部屋で、10畳間を居間、6畳間を次の間として使用しました。当時、渋沢栄一や勝海舟と面会したのもこの次の間でした。明治元年8月15日、藩主亀之助(家達公)が駿府に到着したとき、先ず宝台院に参上し、御霊屋に参礼のち対面したのも次の間でした。その後、家達公は輿に乗り、大手門から駿府城に入城しました。その時、御歳7歳でした。現在、宝台院には慶喜公の遺品として、キセル、カミソリ箱、急須、火鉢、本人直筆の掛け軸、居間安置の観音像が残されています。
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左は、2代将軍秀忠の正妻、右は母親 |
德川慶喜の書 |
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左・右掛け軸は、ともに德川慶喜の書 |
教覚寺 |
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教覚寺
浄土真宗の寺院で、鎌倉時代初期に開山された古刹です。明治2年、静岡藩の財政を司る勘定組頭を任官していた渋沢栄一は、商法会所と称する株式会社を元駿河藩奉行所が置かれていた屋敷内((現・浮月楼))に設立し、「常平倉」と改称して、活動業務を開始していました。同年9月、宝台寺に謹慎して住居していた德川慶喜が謹慎の懲罰を解かれると、その住居が「常平倉」のある場所に決まったため、渋沢栄一たち、常平倉の経営に従事している者は、実務運営の事務用具ともども教覚寺に引っ越してきました。渋沢栄一は、家族とともに同所に住み、しばらく経営の指揮に当たっていましたが、座布団が暖まらないうちに、明治新政府から招聘を受けました。当初、拒絶するつもりでいたが、慶喜に「国のために尽くせ」と諭されたことで、承諾し、同年11月に、東京へ転勤しました。その後、明治新政府の官僚として、瞬く間に頭角を現して、活躍して云ったことは、ご存知のとおりです。
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駿府城 |
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徳川家康は慶長10年(1605)、秀忠に将軍職を譲ると駿府城に戻り、慶長12年(1607)から駿府城を大改修。元和2年(1616)に75歳で亡くなるまで在城した。駿府城は火災で天守閣や櫓が焼失した以降、廃城となり、天守台埋め立てられていたが、現在、発掘調査が行われ、家康が居城していた当時の姿が復元されてきている。 |
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若き日の德川家康と今川義元 |
德川家康 |
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札之辻跡
駿府町奉行所が幕府の政策や法令、禁制等を掲げる高札場があった四ツ辻をいう。 |
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駿府銀座発祥の地
慶長11年(1606)徳川家康の隠居の地、駿府に設立したとされる銀座。主に駿府城の蓄財としての分銅銀、丁銀を鋳造することが目的であった慶長17年(1612)に駿府銀座の機能は江戸へ移転した。 |
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