石見銀山
戦国時代からの代表的銀山。島根県大田市大森町に所在し,現在は大森鉱山と呼ばれている。16世紀前半期に仙ノ山付近に銀坑を開発。天文2年(1533)博多商人神谷寿禎が吹工を伴ってきて銀の製錬に成功した。産銀増加とともに,大内・尼子・毛利氏の間に銀山争奪戦が反復され,銀山に山吹城があり,南西方の降路坂の南に矢滝城があり銀山の押えに当たった。永禄5年(1562)毛利氏が銀山を確保し,やがてこれを室町幕府と朝廷に料所として献じ銀を貢納した。戦国期から江戸中期にかけての代表的銀山。石見国大森(島根県大田市大森町)にあり、近世の金銀山開発の先駆をなした。14世紀初めに発見されたと伝えられるが、16世紀前半から本格化し、天文2年(1533)神谷寿禎が博多から吹大工(製錬工)を伴い、銀の製錬に成功した。以後、大内、小笠原、尼子、毛利氏らの銀山争奪戦が反復されたが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後は徳川氏が支配し、大久保石見守長安の奉行時代に盛況となり、代官陣屋の設置と銀山町が形成された。16世紀後半には1か年で数百貫以上の産出があり、長安の時代には山師安原因繁(よりしげ)の本谷の釜屋間歩(まぶ)は、1602、1603年ころには1か年の運上銀3600貫にも達した。しかし寛永年間(1624~1644)以降はしだいに衰退し、享保期(1716~1736)以降には年間100貫前後となり、天保8年(1837)から安政4年(1857)灰吹銀(はいふき)高は平均42貫余と激減した。江戸期の銀山の管轄は大森代官所で、18世紀以降は銅も産して、銀銅が尾道を経由して大坂へ送られた。明治以降にも稼行し、明治20年(1887)大阪の藤田組の所有となり、一時は銅、金、銀1か月3130貫を産出したが、大正12年(1923)関東大震災の起きた年に休山となった。 |
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