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金箱家 |
令和3年(2021) 4月6日。かねてより、母トシが高等女学校時代に通学した道を、自ら徒歩体験したいと思い抱き、従兄弟の金箱文夫氏の協力を得て、実現することができました。片道、1時間30分に及ぶ道のりは、さすがにハードで、脚に負担がかかりました。しかし、この道を毎日往復していたと言うことは、即ち、毎日3時間以上歩いていたわけで、その疲労で、母は授業中には居眠りでもしていたのでは?、などと不謹慎な憶測を浮かべながら、わたしは黙々と歩いたのですが、幸い、本日は好天に恵まれた、絶好の散歩日和でした。これが悪天候であったらと想像すると、暗澹たる気持ちになり、母の生前にもっと状況を聞いておけば良かったと思う次第でした。ともかく、何とか長い道のりを踏破できたことは収穫でした。当日は、文夫氏の自宅や書斎としている小宅の拝見、金箱家の菩提寺・圓光寺に正幸叔父および金箱一族方々への墓参、桜の名所、烏森神社、通学路周辺に点在する史跡などの散策もでき、誠に内容の濃い一日を過ごすことができました。夕刻、文夫氏に、西那須野駅まで送行いただき、宇都宮に向かいました。最下段「NEXT」を押して、「宇都宮散策」をご観賞ください。 |
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庭内部に建てた小宅を拝見! 入ってびっくり、何と、ゴージャスな書斎でした! 文夫氏が自適生活に入って、古代歴史研究に勤しんで知識を深め、その姿勢から、現天皇陛下が川口を訪問した際、付き添って、史跡の解説を行った様子を彷彿しました。 |
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三島小学校前から「栃木県立大田原高等女学校」まで徒歩で行く |
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那須塩原市と大田原市の市境 |
稲荷神社交差点 |
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到着! 母から聞かされていた苦節の通学路を自ら体験歩行して、悪天候の日の難儀さを想像し、改めて母の苦労を実感しました |
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【創立】 明治44年(1911)に創立した栃木県立大田原女子高等高校は「大田原実科高等女学校」を前身とし、令和3年(2021)で、創立110周年を迎える。
【校訓】 「学びつつ々品位を高めともに働く」
【教育目標】 情操豊かで、知性の高い、健康な現代女性を育成する。
【校章】 昭和23年(1948)に制定。八稜鏡と撫子の花弁を組み合わせたものを背景に、赤色の「大女高」の文字(縦書き)を置いている。 |
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通学路周辺の史跡
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乃木希典 (1849~1912)
明治時代の軍人。長州藩出身。1886年川上操六らと渡独し、軍事研究。陸軍少佐として西南戦争に参加。軍旗を薩摩軍に奪われたのを一生の恥とした。日清戦争に歩兵第一旅団長として従軍。台湾提督を経て、日露戦争には陸軍大将・第3軍司令官となり、旅順攻撃では苦戦の末、露軍陣地を陥落させた。学習院長在職中、妻とともに明治天皇に殉死した。那須野の邸宅は、明治25年(1892)、乃木自ら設計して農家風の質素な別邸を建てた。栗の木の板を小さく切って重ねた栗木羽葺(くりこばぶき)平屋で、建坪は間取り寸法が関西間風で建てられているため53坪であるが、関東間に換算すると約57坪となる。土間と囲炉裏があり、畳の部屋は八畳間が三つ、六畳間が変形六畳を含めて三つ、その他物置場・屋根裏部屋等の質素な作りである。乃木は生涯に四度の休職をしたが、別邸を建ててからは休職中(のべ48か月)の多くをこの別邸で過ごし、晴耕雨読の生活を送り、村人とも親しく交わったという。この邸宅は平成2年(1990)に焼失し、3年後に復元された。 |
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乃木邸前の池 |
一直線の参道 |
元帥 大山巌 墓所 |
大山巌 (1842~1916)
明治陸軍軍人、元老。西郷隆盛の従弟。戊辰戦争では、薩摩鹿児島藩兵の砲隊長。1880年陸軍卿となって以降は、陸軍内部の藩閥の首魁の地位を固め長州の山県有朋とともに陸軍を二分する。1885年の伊藤博文内閣以後、6代の陸相を務める。日清戦争では第2軍司令官。1898年元帥。翌年、参謀総長。日露戦争には、満州軍総司令官となる。後妻は、鹿鳴館で活躍して評判を呼んだ山川捨松。 |
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施錠されていて、拝観不可。割れ板の隙間からShot。 |
烏ケ森神社 |
烏ケ森神社
烏ケ森神社は、平安時代の延喜2年(902)に、那須野原の小高い丘の上に建立され、明治21年(1888)那須野ヶ原開拓の祖・印南丈作・矢板武が開拓の氏神様として社殿を再建、同時に神社を中心に松と桜を奉納植樹して公園化を図りました。御祭神に天照大神・豊受大神・倉稲魂命・印南丈作・矢板武大人命を御奉斎しております。鎌倉時代の建久4年(1193)将軍源頼朝が那須野巻狩の際、豊猟を祈願したと伝えられ、古くから神社への参拝者は絶えなかったといわれます。明治12年(1879)には、後に総理大臣になった伊藤博文と松方正義を烏ヶ森の丘に案内し、この丘から那須野ヶ原を視察し、開拓事業への協力を約すとともに、その成功を神社に祈願しました。明治18年(1885)には那須疏水開削の起工式が行われています。明治27年(1894)には印南丈作・矢板武が社長を務めた那須開墾社の開墾成業式が神前で盛大に行われ開拓事業の成功を奉告しました。以来、当社は「開拓のおやしろ」として崇敬されております。 |
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圓光寺 |
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那須野は数回訪れた所なれど、あまり記憶に残っていなかった。しかし今回 歩きんぐしたことで土地の風景、地理が理解できました |
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