江戸水道路と神田川を行く
飯田橋駅 および 牛込見付跡周辺
JR飯田橋駅から、飯田橋交差点に向い、眼下を流れる神田川に沿って上っていくと、大きなビルが右手にあり、凸版印刷本社ビル、印刷博物館とある。興味を注がれたが、立ち寄らず進むと小桜橋に出ました。これを右折して、坂を上がって行くと小日向T字路に出る。右手を見ると「国際仏教学大学院大学」の看板が見えました。ここは、かって、第15代将軍であった徳川慶喜が居住していた邸宅の跡地でした。
 江戸城外堀
  江戸城は本丸・二の丸、三の丸・西の丸・北の丸・吹上からなる内郭を内堀が囲み、その表門が大手門です。外堀は、雉子橋門から時計回りに、一橋門、神田橋門、常磐橋門など諸門をめぐり、呉服橋門から虎ノ門、溜池から四谷門、市ヶ谷門、牛込門を経て、現在の神田川に入り、小石川門から浅草門で、隅田川に至る堀でした。外堀工事は慶長11年(1606)に雉子橋から溜池までの堀を構築後、元和4年(1618)に駿河台が掘削されて日本橋川の流路に付け替えられ、神田川が誕生しました。この工事で、平川は掘留橋で締め切られ、独立した堀をなりました。 寛永13年(1636)には、天下普請で外堀が構築され
江戸の総構えが完成しました。この工事には、雉子橋から虎ノ門に至る外堀の総石垣化と枡形築造を、前田、細川、池田、黒田ら西国大名(石垣方六組)が担当し、牛込土橋から赤坂土橋に架けての外堀掘削と土塁の構築を東国大名(堀方七組)が担当しました。その後も幕府は外堀を維持するために大名の手伝い普請による堀さらいをしました。特に、牛込~市ヶ谷間の堀は、市ヶ谷~四谷間より水位が下がり、土砂が堆積して蓮が繁ったため、普請奉行の管理下で頻繁に堀さらいが行われ、「ゴミ捨て禁止」のお触れも普請奉行から出され、外堀の維持管理が行われました。
牛込門跡 ・・「阿波守内」銘の石垣石  牛込門は寛永13年(1636)に阿波徳島藩藩主蜂須賀忠英によって築造されました。
旧德川慶喜邸跡 (現・国際仏教学大学院大学)
 国際仏教学大学院大学
    1996年に霊友会の国際仏教学研究所を基礎として設立された入学定員5名、総定員20名の5年一貫制の博士課程のみを設置しており、 仏教学のみの私立単科大学院大学である。 日本で一番小さい大学でもある。
 德川慶喜終焉の地

 德川幕府最後の将軍・德川慶喜は水戸藩主・德川斉昭の七男として、天保8年(1837)小石川の水戸藩上屋敷(後楽園)で生まれました。16歳のとき、一橋家を相続し、幕末の動乱の最中、将軍家茂の後を継いで慶応2年(1866)第15代将軍に即位しました。しかし翌慶応3年、大政を奉還し、鳥羽伏見の戦いの後、天皇に対して、恭順の意を表して水戸で謹慎しました。のち、駿府に隠棲して、その地に30余年過ごしたが、明治30年(1897)東京巣鴨に転居したが、鉄道工事の騒音を避けるため、明治34年(1901)12月24日、誕生地の旧水戸屋敷に近い、小日向台のこの地に再び転居しました。慶喜は、のちに公爵、勲一等旭日大綬章を明治天皇から授けられ、朝敵とされた過去から名誉回復が成されました。大正2年(19131122日 急逝肺炎のため、この地で永眠しました。 享年 76

切支丹屋敷跡
還国寺(げんこくじ)   古今亭志ん生、志ん朝の墓所
古今亭志ん朝
  落語家。1938、第5世古今亭志ん生の次男として東京に生まれた。本名、美濃部強次。兄は第10世金原亭馬生。入門から五年という異例のスピードで真打に昇進。立川談志三遊亭円楽春風亭柳朝らの先輩たちを追い抜いての異例の出世で世間を驚かせた。明快、テンポの良い軽妙な語り口は大いに人気を博した。一方、人情に篤く、客入りの良くない名古屋の大須演芸場を守る足立席亭の心意気に感じて、1991年から毎年独演会を行って経営を助けたのは有名な話である。
得意の演目は「居残り佐平次」「愛宕山」「文七元結(ぶんしちもっとい)」「明烏(あけがらす)」など。
2001年10月1日、肝臓がんにより死去。享年63歳。戒名は「光風院楽誉観月(らくよかんげつ)志ん朝居士」。 
●文京総合福祉センターの地は、戦前文京区立第五中学校があった。同校からは、旧会津藩主・松平容保
の六男外交官松平恒雄、作家永井荷風、映画監督黒沢明などが輩出している
関口大洗堰・ 芭蕉庵・ 水神社
 
この界隈は見所がたくさんあります
神田上水取水口大洗堰跡

神田上水は井の頭池を源流とし、目白台下の関口大洗堰で水位を上げて、これを開渠で水を導き、水戸屋敷(後楽園)へ入れました。水戸屋敷からは暗渠で神田、日本橋方面へ配水しました。明治11年頃、水質を保つため、開渠に石蓋を架けました。その石蓋を巻石蓋(まきいしぶた)と呼びました。その後、神田上水は鉄管に代わり、飲料水としての使用は明治34年(1901)まで使用されました。以降は、水戸屋敷に設けられた陸軍砲兵工廠(兵器工場)の工業用水として利用されました。  

関口芭蕉庵

俳人 松尾芭蕉は延宝5年(167834歳のときから4年間に亘り、この地に居住して神田上水の改修工事に携わった
と言われています。芭蕉の前身は伊賀国藤堂藩の低い身分の武士で、築城土木、水利の技術に精通していたことから
藤堂藩が幕府から神田川の改修を命じられた際、ここ関口堰工事に関わったことが推察できます。
俳人松尾芭蕉として知られていますが、他の技術も身につけていた異才であったことがうかがい知れます。

水神社
肥後細川庭園
  肥後細川庭園 (平成29年3月新江戸川公園から名称を変更)は、東京都文京区目白台にある文京区立の公園である。当地一帯は江戸時代中頃まで幕臣の邸宅があったところであった。その後、幾度かの所有者の変遷を経て、幕末に細川家の下屋敷になり、明治時代には細川家の本邸となった。昭和35年(1960)に東京都が当地を購入し、翌年には公園として開園した。昭和50年(1975)文京区に移管されて現在にいたる。当地付近は目白台からの湧水(わきみず)が豊富な地点で、その湧水を生かした回遊式池泉水庭園を主体とした公園となっており、江戸時代の大名屋敷の回遊式泉水庭園の雰囲気を現在でも楽しむことが出来る。
 松聲閣の二階和室より庭園を望む
永青文庫
 永青文庫は、東京都文京区目白台にある、日本・東洋の古美術を中心とした美術館である。昭和25年(1950)旧熊本藩主細川家16代当主細川護立(1883 – 1970)によって設立された。伝来の美術品、収集品、歴史資料などを収蔵し、展示、研究を行っている。目白台の閑静な住宅街のなかにある。細川護立は旧侯爵、貴族院議員で、国宝保存会会長などを務め、戦前・戦後の日本の文化財保護行政に多大な貢献をしている。「美術の殿様」と言われ、美術品収集家としても著名であった。文庫の所在地は細川家の屋敷跡であり、建物は昭和時代初期に細川家の事務所として建てられたものである。文庫名の「永青」は細川家の菩提寺である*建仁寺塔頭永源院の「永」と、細川幽斉の居城・青龍寺城の「青」から採られている。一般公開されるようになったのは、当主が第17代細川護貞になった昭和47年(1972)からである。正宗の名刀をはじめ8点の国宝や狩野元信、宮本武蔵、菱田春草らが描いた絵画など多数の重要文化財を所蔵している。所蔵品は芸術新潮編集部 編『細川家の700年 永青文庫の至宝』で詳しく紹介され、現在の第18代当主・理事長で元首相の細川護煕も執筆している。* 建仁寺:京都市東山。栄西が開山した臨済宗建仁寺派大本山の寺院。
田中角栄邸と目白台運動公園
  田中角栄元総理は、1993年に逝去され、その遺産相続額は約120億円を有し、そして相続税は65億円に及んだと言われています。それだけの納税金額を現金で支払うことが出来ないため、目白御殿の庭園の約60パーセントあたる約3200平方メートルの土地を物納として、文京区に支払ったそうです。物納された土地は、文京区が所有している土地に加えられ、現在、「文京区立・目白台運動公園」として野球、テニス、遊具施設など‎に使用されおります。つまり、田中角栄の遺産は都民のレガシーとして残されたことになりました。「角さんは庶民の味方」ですね。残された田中邸には長女の眞紀子さんと夫直紀氏が住んで居るそうです。表門表札の「田中」名は、田中角栄氏直筆の書であり、住所には番地が入っていないのが印象的です。
日本女子大学
和敬塾