「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」
    松尾宗房(芭蕉)は若い頃、津藩・藤堂家一族の藤堂良忠(俳号蝉吟)の京都屋敷で奉公していた。藤堂藩は知的教養を重んじる藩風で、2歳年長の主人良忠は俳句を嗜み、芭蕉にも教え、共に学んで、俳句の世界に心頭していった。ところが師とも言うべき、主人・良忠は芭蕉23歳の時に亡くなってしまった。かくして芭蕉は、良忠との永久の別れに、追慕と憂愁から俳諧へと傾倒していった。それから、20余年、立石寺を訪れて詠じたこの句は、俳句の手ほどきを指導してくれた良忠への追慕を詠じたもので、”蝉の声”は良忠のことと言われている

   山形城は、最上氏の祖斯波兼頼が、延文2年(1357)に築城したと伝えられている。兼頼の子孫は、その後最上氏を称して、代々居城した。最上氏11代当主義光の代に、関ヶ原合戦の戦功により、57万石の大々名となり、実質100万石の城下町として山形は繁栄した。  しかし、義光の孫・家信(義俊)の代に、家中不取締りの罪により、最上氏は改易され、その跡に鳥居忠政(24万石)が入部したが、忠政は山形城の本丸・二ノ丸を改築したので、現在の二ノ丸跡は、鳥居氏時代の遺構といってよい。  鳥居氏の以後、城主は11氏(幕領2回)が頻繁に交替し、最後の城主水野氏は、僅か5万石で明治維新を迎えた。  (山形観光協会)