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常楽寺 |
常楽寺(臨済宗建長寺派)は、三代執権北条泰時が、嘉禎3年(1237)、妻の母の供養のために建てた「粟船御堂」を前身としている。その供養には、源頼朝や北条政子が帰依した退耕行勇が導師を勤めた(宗旨は密教系であったといわれている。)。仁治3年(1242)に亡くなった北条泰時はこの地に葬られた。のちに、五代執権北条時頼が、中国宋から来日し壽福寺に寓居していた蘭渓道隆を招き、禅の道場が開かれた。道隆が建長寺を開く前に、この地で禅を広めていたので、常楽寺は「建長寺の根本」と称されている。 |
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八雲神社 |
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山ノ内の八雲神社は、鎌倉時代、疫病が流行した際に、村人が京都の祇園社(現在の八坂神社)の神霊を勧請したと伝えられ、「午頭天王社」と称されていた。一説には、室町時代に関東管領上杉憲房が武運長久を祈願して勧請したとも伝えられる。 |
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明月院 |
明月院(臨済宗建長寺派)は、平治の乱で死んだ首藤俊通の菩提を弔うために、永暦元年(1160)、山内首藤経俊によって創建された「明月庵」が起源とされる。 のちの康元元年(1256)、五代執権北条時頼がこの地に「最明寺」を建て、その最明寺を前身として八代執権北条時宗が蘭渓道隆を招いて「禅興寺」を創建。 康暦2年(1380)、鎌倉公方の足利氏満の命で関東管領の上杉憲方が禅興寺を中興し、明月庵も明月院と改められ、禅興寺の支院の首位に置かれた。 禅興寺は、関東十刹の一位に列せられるほど興隆したが、明治初年に廃寺となり、支院の明月院だけが残されている。
開山:密室守厳(みっしつしゅごん)開基:上杉憲方 本尊:聖観世音菩薩 |
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長寿寺 |
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建長寺 |
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寿福寺 |
寿福寺(正式には「壽福寺」と書く。)は、正治2年(1200)、源頼朝の妻北条政子の創建。 寿福寺のある亀ヶ谷の地には、頼朝の父義朝の屋敷があったとされ、治承4年(1180)、源氏再興の挙兵をして鎌倉に入った頼朝は、当初この地に御所を置こうと考えたが、土地が狭く、亡き父の御堂(岡崎義実による造立)もあったことから大倉の地を選んだのだという。 亀ヶ谷は、奥州征伐に向かう八幡太郎義家(源義家)が勝利を祈願し、白旗を掲げたという源氏山が背後にあり、源家父祖伝来の地でもある。 開山の栄西は、日本に初めて臨済禅を伝えた僧で、宋から茶の種を持ち帰ったことで知られる。 栄西の茶の効用を記した『喫茶養生記』は、三代将軍源実朝に献上され、喫茶の儀礼が広まる契機となった。 宋の禅僧蘭渓道隆は、1248年(宝治2年)頃に寿福寺に仮寓し、常楽寺に移った後、建長寺を開いている。 源実朝、北条政子、高浜虚子、陸奥宗光、大佛次郎の墓がある。 |
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鶴岡八幡宮 |
鶴岡八幡宮は、康平6年(1063)に、源頼朝の先祖源頼義が「源氏の氏神」である京都の石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請したがその始まり(由比若宮(鶴岡若宮))。 治承4年(1180)、源氏再興の挙兵を果たして鎌倉に入った源頼朝は、由比若宮を小林郷北山(現在の地)に遷して「鶴岡八幡宮新宮若宮」とし、武家の都市づくりの中心に据えた。 建久2年(1191)、火災によって焼失するが、頼朝は、若宮を再建するとともに、大臣山の中腹に上宮(本宮)を新造し、今日の姿(上下両宮)となる。 鎌倉幕府滅亡後も「武門の神」として足利氏、後北条氏、豊臣氏、徳川氏に崇敬された。 現在の本宮は文政11年(1818)、江戸幕府十一将軍徳川家斉に、若宮は寛永3年(1626)、二代将軍徳川秀忠によって修築造営された建物。
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