京王電鉄線・高幡不動駅より、徒歩5分にある高幡不動金剛寺を散策
  真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺は古来関東三大不動の一つに挙げられ高幡不動尊として親しまれている。その草創は古文書によれば大宝年間(701)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る1100年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まる。のち建武2年(1335)8月4日夜の大風によって山中の堂宇が倒壊したので、時の住僧儀海上人が康永元年(1342)麓に移し建てたのが現在の不動堂で関東稀に見る古文化財である。続いて建てられた仁王門ともども重要文化財に指定されている。足利時代の高幡不動尊は「汗かき不動」と呼ばれて鎌倉公方をはじめとする戦国武将の尊祟をあつめ、江戸時代には関東十一檀林に数えられ、火防の不動尊として広く庶民の信仰をあつめた。 (高幡不動尊HPより)
丈六不動明王坐像
五重塔の装飾は美しく輝いている
 昌泰四年、右大臣菅原道真公筑紫太宰府に左降の折、第三子道武公は武蔵国多摩郡分倍庄栗原郷(現国立市谷保)に配流せられた。延喜3年、父道真公薨去の報を受け、道武公は思慕の情から父君の尊容を刻み鎮座したのが起りである。天暦元年京都北野天満宮造営の折、当社の威霊を奉上され村上天皇の勅により神殿を造営され官社に列せられる。建治3年後宇多天皇の勅により藤原経朝書「天満宮」の扁額を納められる。 その後、道武公の玄孫・津戸三郎為守は源頼朝に仕え数々の武功を立てるが、養和元年11月3日、旧来の地より神殿を現在の地に遷し、太宰府に模して梅香山安楽寺を興し、社務六院を置き祀典を司どった。明治18年には府社に昇格し東日本における天満宮としては最も古く、湯島天神、亀戸天神とならび関東三天神と称される。
主なる社宝には、 
○ 後宇多天皇勅額「天満宮」(国指定重要文化財)
○ 村上天皇奉献「狛犬一対」(国指定重要文化財)
○ 菅公御染筆「法華経」
○ 源義経他書写「大般若経」
○ 水戸光圀公奉納扁額「天満宮」
○ 本殿・拝殿(市指定重要文化財) などがある。  (谷保天満宮HPより)
奉納された石造牛 枯れた滝の跡