新井薬師・伊興地区散策
 西新井大師
   西新井大師は、五智山遍照院總持寺といい、真言宗豊山派の寺院です。天長の昔、弘法大師が関東巡錫(じゅんしゃく )の折、当所に立ち寄り悪疫流行に悩む村人たちを救おうと、自ら十一面観音像と自身の像を彫って、観音像を本尊に、そして自身の像を枯れ井戸に安置して二十一日間の護摩祈願を行ないました。すると清らかな水が湧き、病はたちどころに平癒したと言われています。その井戸が御堂の西側にあったことから「西新井」の地名ができたと伝えられています。この伝説が語るように、当地西新井は弘法大師と切り離すことのできない歴史を持っています。そして厄災消除の祈願寺として創建された当山は江戸時代には女性の厄除け祈願所として名を馳せました。現在、東京のみならず埼玉や千葉など関東近県よりも多くの善男善女が訪れる厄除けの霊場として栄えています。また、厄除けだけでなく様々な所願成就やお子様の初参り、七五三等も毎日の護摩祈願が行なわれています。 (ウィキペディアより)
 炎天寺
炎天寺
   炎天寺は平安中期に源頼義、義家父子が建立したと伝えられている古刹。 俳人 小林一茶は千住関屋に住んでいた建部巣兆を中心とした文化人たちと関かわり、竹の塚の作家・竹塚東子などとこの寺の周辺をよく歩き、「蝉鳴くや六月村の炎天寺」「やせ蛙負けるな一茶是にあり」などの句を残しました。炎天寺では昭和37年それらの句碑を境内に建て、一茶の命日である11月19日に地元の有志が「一茶まつり」として一茶を偲ぶ法要と石田波郷氏を特別選者に句会を開いたのが始まりです。
 
 西光寺
白旗塚史跡公園 
 法受院
 桂昌院
  寛永4年(1627)、京都 今宮神社付近で青物屋を営んでいた仁左衛門の子として産まれたと伝えられる。しかし、幼い頃、父が病死して、母とお玉は世間の荒波に放り出された。農家で野菜を仕入れては母子で荷車を押して売り歩く毎日であった。お玉が10歳をを過ぎた頃、人生の転機となる一つの幸運が舞い込んだ。母が武家の名門、本庄家の飯炊き係として、職を得たのである。働き者で器量良しの母はその後、妻を亡くした本庄家の当主に見初められ、後妻として迎えられることになったのだ。青物屋の娘から、武家の娘に転身したのである。しかし、いままでとは全く違う生活に戸惑い、苦労が続いた。行儀作法、挨拶の仕方など、徹底して武家の作法を叩きこまれた。そんなお玉が13歳になった頃、再び幸運の転機が訪れた。お玉は、本庄の父から江戸の大奥に行くように言われたのである。これは本庄家が仕えていた公家の娘が、将軍家光の側室に決まり、その身の廻りの世話係りとして、お玉に白羽の矢が立ったのである。お玉は、不安を感じながら江戸に旅だって行きました。寛永17年(1640)、14歳になったお玉は慣れない大奥生活のなか、側室の世話係いわゆる”部屋子”として懸命に働いた。大奥、そこは当時日本の女性たちにとって、栄華の頂点、誰もが憧れる夢舞台の世界であった。一見、煌びやかに見える大奥。実は、厳しい階級世界であった。御末(おすえ)と呼ばれる最下級の女から上臈(じょうろう)御年寄の最高位まで細かく階級が設けられ、将軍の側室になる女たちは、原則、旗本、御家人の娘に限られていた。そんなある日、大奥の一切を取り仕切る最高権力者 春日局から、自分の部屋子になれと命じられたのである。3代将軍 家光にはまだ、子が生まれず、跡継ぎ問題を抱えていた春日局にとってお玉は側室候補として目に留まったのだ。そして、遂に運命の日がやって来る。側室候補に庭先を歩かせ、将軍に内々にお目通りする「御庭拝見」に選ばれたのだ。お玉は、見事、家光に気に入られたのである。ついに、青物屋に娘は将軍の寵愛を受ける「お手付き」になったのである。このとき、17歳であった。正保2年(1646)、お玉はついに将軍家光の子を宿した。お玉は安産を願って、霊力があると評判であった僧侶に祈祷をさせた。すると僧は「あなたの生む子は、天下を治める人になるでしょう」正保3年(1646)20歳のお玉は予言通り男子を産み、子は徳松と名付けられた。徳松は、幼い頃から利発であった。しかし、家光にはすでに2人の男子がいたたま、徳松の地位はあくまで、ナンバー3であった。父である家光は「徳松は生まれつき聡明ゆえ学問に重きを置いて養え」自らも後継者問題で弟、忠長との間で苦い思いをしたことがあったので、”決して出しゃばるな”とお玉に言い含めた。慶安4年(1651)家光が没し、長兄家綱が11歳で将軍に就いた。家光の死によって、仏門に入ったお玉は、以後、桂昌院と名乗るようになり、息子徳松とともに大奥を離れた。承応2年徳松は7歳で元服、名を綱吉と改めた。そして、館林藩25万石の城主となり、神田の江戸屋敷でひたすら勉学の日々を送った。母子水入らずでひたすら学問と仏門への帰依に打ち込み、30年近い年月が過ぎた。桂昌院が54歳となった延宝8年(1680)、四代将軍家綱が危篤との知らせが入った。このとき家綱には未だ世継ぎがいなかった。死の床にあった家綱は次期将軍を綱吉にすると命じた。ここに、第五代将軍徳川綱吉が誕生するのである。

【母と子の世直し】
  五代将軍の母となった桂昌院は、30年の歳月を経て、江戸城に帰ってきた。桂昌院は大奥2000人の頂点に立ったのだ。これを契機に桂昌院は政治にまで意見を挟むようになっていったのである。未だ、ちまたでは浪人達の辻斬りや殺人が横行していた。庶民の暮らしぶりは、幕閣の誰よりも知り尽くしていた桂昌院、「いまこそ殺伐とした武断社会から儒教と仏教を重んじる社会に改革せねばならない。もはや刀の時代ではない。武士もまた変らなければならない」と意を強くして綱吉に求めた。この意をうけた綱吉も自ら動き出した。主君への忠義と親への孝行が社会を安定させると思い定め、諸国に「忠孝奨励の訓札」を立札させた。

【生類憐れみ令】
  桂昌院は将軍の母としても悩みを抱えていました。それは世継ぎ問題で、綱吉の長男が亡くなり跡継ぎが未だ存在していなかった。そこで、かねてから信頼していた僧・隆光に相談したところ「前世の報いでしょう。世継ぎを望むのであれば、生類を大事にしなければなりません。」との示唆を得た。世間をみれば未だ殺生は絶えない。中でも生活の困窮を理由に、日常行われている捨て子の行く末に桂昌院はこころを痛めていた。誰かに拾って貰いたい子が、野良犬に食べられてしまう事件もあったのだ。仏教に帰依する桂昌院にとって、「捨て子」は許すことの出来ない「悪業」であった。儒教の精神を重んじ、また自らも巷の状況を憂いていた綱吉は一つの法令を発した。貞享2年7月、「生類憐れみの令」の発布。「すべての命あるものを大切にするよう心得よ」と全国に御触書を発令したのだ。綱吉は、守らぬ者には流刑や死罪という厳罰まで用意した。内容は、徐々にエスカレートして鳥や魚、貝類、虫に至るまで殺傷を禁止した。この法令は、綱吉が亡くなるまで、24年間も続いた。この結果、庶民の生活に大混乱を引き起こしたが、辻斬りや人殺しなどの凶悪犯罪は激減した。”例え、どんな小さな命でも、愛おしくしなければならない”という桂昌院の強い信念は人々の意識を変え、日本社会をも変えていったのである。   (ウィキペディアより)
易行院
 五代目 三遊亭 圓楽  
  東京都台東区出身の落語家。本名、吉河 寛海。
落語円楽党党首、円楽一門会総帥、円楽一門会最高顧問などを歴任した。演芸番組「笑点」の大喜利メンバー・司会者を長く務めていたことで知られる。現役時に所属した芸能事務所は星企画→若竹カンパニー。なお、若竹カンパニーは自身の長男が代表取締役を務める個人事務所であった。身長は177cmと長身である。 若い頃は「星の王子さま」の愛称で親しまれた。端整な顔立ちと博識ぶりにより、1960年代演芸ブームの際には脚光を浴びる。 7代目立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝休業後は8代目橘家圓蔵)と共に「落語若手四天王」と呼ばれ名声を博したた。
   吉河家は羽柴秀吉による鳥取城の戦いにて自害した城主・吉川経家を祖とする。経家の三男・吉川家好は後に、鳥取藩池田家の家臣となったと藩翰譜にある。 安政7年 (1860)、寛海の曽祖父に当たる人物が切腹した。それに立ち会った寛海の祖父・寛雅は 「侍というものはかくも悲惨なものか、もう厭だ」 と思いつめて武士をやめ、増上寺に入り、僧侶となったという。明治に至って、寛雅は苗字を「吉川」(きっかわ)から「吉河」(よしかわ)に改めた。その息子も僧侶を継ぎ、易行院住職となった。
常福寺
 林家 三平(本名:海老名 泰一郎)
テレビ時代の申し子と謳われた三平は、テレビが生んだ最初のお笑いブームの火付け役かつ中心的存在であり、また「爆笑王」の盛名をほしいままにした。売れる前は父・正蔵と同じく古典落語を主に高座で行っていたものの、「囃の途中で言葉につまる」「登場人物の名を忘れる」などの致命的なミスが目立つことが多かったため、仲間内から「下手な奴」「鷹が生んだ鳶」、などと馬鹿にされていた。観客の中にも「この人は本当に落語を喋れるのか」と思うものは少なくなかった。だが三代目三遊亭金馬だけはその素質を感じ、「あいつはいつか大化けする」と将来の大成を予言していた。時事ネタを中心に、「よし子さん」「どうもすいません」「こうやったら笑って下さい(と額にゲンコツをかざす)」「身体だけは大事にして下さい」「もう大変なんすから」「ゆうべ寝ないで考えたんすから」「坊主が二人で和尚がツ―(お正月)。」などの数々のギャグと仕種で一気にたたみかける爆笑落語は茶の間で人気を博した。そして、「――このネタのどこが面白いかと言いますと……」と現在でいう「スベリ芸」を先駆けるネタも用いたことでも知られている。因みに「どうもすいません」、額にゲンコツをかざす仕草は、元々は父の七代目正蔵が客いじりで使用し、息子たちも時折見せる海老名家のお家芸のポーズである。なお、「どうもすいません」について三代目三遊亭圓歌は、NHKアーカイブスの中で、東京タワーからのテレビ放送で司会をしていた三平が台詞を忘れてしまい、「どうもすいません」と額にゲンコツをかざしたところ、お客に大いに受けたのが始まりであると語っている。子供が泣けばあやす、客がトイレに行けばそれをいじるなど、客いじりにも造詣があった。 持ち時間制限が厳しいテレビでの露出が目立ったという事情もあり、小噺を繋いだ漫談風落語が一般の印象に強く、本格的な古典は苦手と受け取られがちである。しかし、実際には古典落語もきっちりこなせるだけの技術と素養を持っている噺家であった。 1980年9月20日 肝臓ガンで死去(享年54歳)       「在りし日の林屋三平師匠」
 東岳寺
 歌川広重 (1797年 - 1858年10月12日)
  歌川 広重は、江戸時代の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。江戸の定火消しの安藤家に生まれ数え13歳家督を継ぎ、火消同心職の代番を勤めた。幼いころからの絵心が勝り、15歳のころ、歌川豊広門下に入門。1812年に歌川広重の名を与えられた。役者絵から出発し、美人画も描いたが、その後浮世絵師となり風景を描いた木版画で大人気の画家となった。1832年、火消し同心職を長男仲次郎に譲り、絵師に専心することとなった。翌年から、翌年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなった。以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみた。また、短冊版の花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、そのほか歴史画・張交絵・戯画・玩具絵や春画、晩年には美人画3枚続も手掛けている。これらの作品は、ゴッホやモネなどの西洋の画家にも影響を与えている。さらに、肉筆浮世絵・摺物・団扇絵・双六・絵封筒ほか絵本・合巻や狂歌本などの挿絵も残し、総数で2万点に及ぶ作品を描いたと言われている。62才のときコレラ感染して死去したと伝えられる。