碑文谷~円融寺~洗足池 |
|
2022年5月10日( 晴)、東横線学芸大学駅に集合して、ここを基点として、碑文谷公園、雀のお宿公園、碑文谷八幡宮、サレジオ教会、円融寺洗足学園前、千束八幡宮、洗足池に至るコースの散策を開始しました。比較的、平坦なコースで距離も短く、日頃の運動不足を補うのに格好のコースで、9時半過ぎにスタートしました。 |
|
碑文谷公園 |
 |
 |
 |
 |
すずめのお宿緑地公園 |
すずめのお宿緑地公園
当公園付近は、昭和のはじめまで目黒でも有数の竹林で、良い筍が採れました。竹林には無数のすずめが住み着き朝早くいずこへともなく飛び立ち、夕方にはいづこへともなく飛び立ち、夕方には群れをなして、帰ってくることから、いつしか人々は、ここを「すずめのお宿」と呼ぶようになりました。この土地の所有者、角田セイさんは、長年この地で一人暮らしをしていましたが、「土地は自分の死後、お国に返したい」といって大事にしておりました。その尊い遺志が生かされて、角田セイさんの没後、目黒区が国からここを借り受けて公園を造り多くの人々の憩いの場として、利用することができることとなったものです。これが由来です。
|
|
 |
 |
 |
 |
碑文谷八幡宮 |
碑文谷八幡宮の創建年代は不詳であるが、鎌倉時代に源頼朝の家臣、畠山重忠の守護神をその家臣筋で当地に住んでいた宮野左近という人物が祀ったのが始まりであると言われている。現在の社殿は延宝2年(1674)に造替したものを明治5年(1872)に再建し、同20年(1887)に改築したもの。神仏分離令が出るまで、別当寺として近辺にある円融寺の子院である神宮院が置かれていた。
また神社には畠山重忠の家臣榛沢六郎という人物を祀った稲荷社と「碑文谷」の名の起因ともいわれている碑文石が保存されている。そのほかにも勝海舟直筆の「八幡大神」の額なども保存されている。また、桜の時期になると一の鳥居から二の鳥居までの間が桜の花で溢れ、桜の見所にもなっていることでも知られている。
|
|
 |
 |
 |
 |
 |
 |
サレジオ教会 (カトリック碑文谷教会 ) |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
円融寺 |
円融寺
円融寺は寺伝によると、仁寿3年(853)円仁(慈覚大師)が建立した天台宗妙光山法服寺という寺院でした。弘安6年(1283)日蓮の弟子・日源により、日蓮宗に改宗し、妙光山法華寺と改称しました。鎌倉時代から江戸時代にかけては吉良氏や徳川氏の庇護を受け、坊舎18、末寺75箇寺を数える大寺院でした。寛永7年(1630)身池対論には法華寺から日進が臨んでいます。法華寺は不受不施派の寺院として江戸幕府の弾圧を受け、改宗を余儀なくされました。元禄11年(1698)再び天台宗の寺院となり。天保5年(1834)経王山円融寺と改称しました。不受不施派とは、法華経信者以外からは施しを受けず、与えずという一派で、日蓮宗本山の久遠寺と対立し、江戸幕府からも弾圧されました。日源の法脈は、当寺の改宗をもって完全に疲弊していきました。そのために、寺宝の祖師像は妙法寺、三宝尊像は立源寺、釈迦如来涅槃之図は常円寺、法華門は妙法寺、摩耶夫人像は摩耶寺などゆかりの寺院に引取られていきました。
|
|
 |
 |
円融寺仁王門 仁王門は三間一戸、八脚、入母屋造、茅葺きで、用材はヒノキとケヤキを使い、和様に唐様を取入れた建築様式で、細部の虹梁、かえる股などにも彫刻的装飾が多く、施されています。中央通路脇に安置されている木造金剛力士像は永禄2年(1559)鎌倉扇谷の仏師大倉法眼の作と云われ、簡素な中に、力強さを秘めていて、「黒仁王さん」と親しまれ、江戸時代には多くの人の信仰を集めました。仁王門は木造金剛力士像の製作と共に建築されたものと推定され、江戸時代の寛文・元禄期の様式で改修されたものと思われています。
|
|
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
 |
洗足学園跡 |
 |
 |
洗足学園
洗足学園の創設者前田若尾は、土佐藩氏族の家に生まれました。東京裁縫女学校を卒業後、錦秋女学校の教員、青山女子学院教員をしていましたが、関東大震災が発生したのち、大正13年(1924)自宅に私塾平塚裁縫女学校を創設しました。そして、2年後、このバス停の前にあるマンションの場に移転して校名も洗足高等女学校と改めました。現在、この地にも、付近にも学園はないが、バス停の名前にその足跡が遺されています。「洗足」という学園名は、地名を冠した命名のように思えますが、そうではなく、前田若尾自身が敬虔なクリスチャンであり、自ら「洗足」と命名したことにもその理念が投影しています。
* キリストは、明日は十字架の上に消えることを悟ったとき、12人の弟子たちの足を一人一人洗ってやって、最後の晩餐の席につきました。イエスは、夕食の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手拭をとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手拭で拭きはじめました。「主でありまた教師であるわたしが、あなた方の足を洗ったからには、あなた方もまた互いに足を洗うべきである。わたしがあなた方にしたとおりに、あなた方もするように、わたしが手本を示したのだ」と語りました。このように新約聖書「ヨハネによる福音書」第13章には書かれています。若尾はこの教えを理念として、教育の理想を深く思慮し、そしてキリスト教の教えを厚く信仰することを命名した「洗足」に込めたのです。その後川崎市高津区に移転した「洗足学園音楽大学」の教育にも、今日この精神が引き継がれているのです。
|
|
千束八幡宮 |
 |
 |
 |
 |
名馬「池月」
治承4年(1180) 源頼朝が石橋山の合戦に敗れてのち、安房に渡って再起し、鎌倉に向かう途中、千束郷(いまの洗足池)近くの八幡丸の丘に宿営して、近隣の豪族たちの参加を待ちました。ある月明りの夜、何処からか、一頭の駿馬が陣営に現われ、そのいななく声は天地を震わすほどでした。家来たちはこれを捕らえ頼朝に献上しました。馬体はたくましく、青毛はさながら池に映る月光が輝くように美しかった。頼朝は駿馬を「池月」と命名して、自らの乗馬としました。寿永3年(1184)宇治川の合戦において、佐々木高綱は頼朝から拝領した名馬池月に乗り、おなじく名馬磨墨に乗った梶原源太景季と先陣を競い池月が一番乗りの栄誉に輝いたと伝えられています。
|
|
洗足池 |
 |
 |
 |
 |