祐天寺 |
祐天寺は、江戸時代の高僧祐天上人の遺徳を偲び、その高弟祐海が享保3年(1718)、第8代将軍吉宗の許可のもとに開創した寺院です。以来、幕府の庇護を受けて栄えたが、壮麗を誇った堂宇は、明治27年(1894)に起きた大火で本堂、書院は焼失したが、仁王門、地蔵堂、阿弥陀堂、鐘楼などは、難を免れました。なかでも仁王門は享保の創建時の姿を留めており、仁王像は仏師法橋石見の作で貴重なものです。本堂には、祐天上人像、本堂宝物殿には、持国天像、増長天像が鎮座しており、そして都有形文化財の般若心経、法華経が保存されています。また、境内には、白子組と灘目の海難供養碑や百万遍供養塔や祐天の回向により成仏したと伝わる歌舞伎で有名な累(かさね)の伝説をいまに伝える累塚、第6代将軍正室天英院が寄進した鐘楼・梵鐘があります。そして、墓所には明治天皇の側室で大正天皇の母である柳原愛子(なるこ)内親王、祐天上人、大河ドラマ青春を衝くで一躍世に知られるようになった、渋沢栄一の従兄弟渋沢喜作の墓、有力大名家の内室の方々の墓があります。 |
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三門 |
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仁王門 |
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阿弥陀堂
第5代将軍徳川綱吉の養女、竹姫の寄進で、同じく竹姫が寄進した仁王門の12年前に建立されました。木割や細部絵様の簡素でありながらしっかりした線刻に、江戸時代中後期の特質をよく留めています。屋根裏には、享保9年(1724)の上棟時と、嘉永7年(1854)、昭和7年(1932)の修理時のあわせて3枚の棟札が納められています。 |
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地蔵堂
地蔵堂は天明8年(1788)建立されました。扁額の「開山本地堂」の書は、郡山藩主柳沢信鴻(のぶときー柳沢吉保孫)筆によるもので、これは、祐天上人の本地が地蔵菩薩であることを表現しています。建物は正面三間側面五間で、正面寄棟造、背面入母屋造、向拝付である。内部は内外陣に分けられ、背面一間をさらに虹梁等で区切って須弥壇を設け、厨子を安置している。天井部は江戸町火消の各組の纏を描いた格天井とし、内外陣境に欄間をおとしめて飾っています。 |
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○ 下総の羽生村に累(かさね)という娘が住んでいました。累は与右衛門という旅の男を婿に迎えますが、財産だけが目当ての彼は累を川に突き落として殺してしまいます。その後、与右衛門は新しい妻をめとり、菊という娘が生まれました。ところが、累の怨霊が菊に乗り移り狂乱してしまいます。そこへ祐天上人が現れ、一心不乱に念仏を唱えると、さしもの累の怨霊も鎮まり、菊はもとの娘に戻りました...。この話は後に四代目鶴屋南北により「累ケ淵」という歌舞伎となり、三遊亭圓朝により「真景累ケ淵」として世に広まりました。 |
○ 江戸時代に灘の樽廻船と、関西の木綿問屋仲間白子組の廻船が江戸に向かう途中、それぞれ相模灘や駿河湾、遠州灘で大風などに遭い、度々沈没しました。2基の海難供養碑は、その遭難者の慰霊のために江戸の商業問屋仲間が建立したものです。供養碑に刻まれた碑文により、度重なる海難の事実を知ることができます。またそれぞれの廻船および海難事故については、船籍所在地の史料からも史的事実の裏付けがなされています。
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島崎七郎翁は祐天寺の興隆と目黒区の発展に尽力しました |
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百萬遍講中永代石碑
祐天上人の名号の利益を得た鍵屋善助が、その報恩のために石塔建立の発起人となり、文政4年(1821)に完成しました。 |
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祐天寺墓地 |
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柳原愛子(やなぎわらなるこ)は明治天皇の典侍(ないしのすけー律令制における官職で、内侍司(後宮)の女官)で大正天皇の生母。幕末の議奏・柳原光愛の次女で伯爵 柳原前光の妹。「筑紫の女王」と呼ばれた柳原白蓮は姪にあたる。位階の正二位をもって二位の局と呼ばれました。 |
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渋沢喜作は、渋沢栄一の従兄弟で共に一橋家に家臣として取り立てられました。主君、德川慶喜が大政奉還して、鳥羽伏見の戦いで敗れてからは、彰義隊に参加、そして榎本武揚率いる幕軍に加わり、新政府軍と函館で戦うが降伏し、入獄。出所後、渋沢栄一の助力で生糸産業に進出して財を成して、目黒八芳園の地に住居を構えていました。
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○ 土佐山内家の藩主内室や家族たちの墓所。
○ 祐天上人は増上寺 第36代大僧正住持で德川家5代から8代までの歴代将軍の帰依を受け、四海に響く名僧と云われました。 |
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2022年6月2日 |

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