平田寺
   弘安6(1283)年に開創した遠州地方で最も古い臨済宗の禅寺の一つです。開山の龍峯宏雲禅師は、室町幕府の初代将軍・足利尊氏の叔父といわれています。相良地域の有力寺院として、今川氏、武田氏、徳川氏など数々の武将から尊崇されました。宝暦8(1758)、田沼意次が相良藩主に就任すると、田沼家の御位牌を祀る香華寺として厚い庇護を受けました。現在の本堂は、天明6年(1786)に再建されたもので、田沼家専用の玄関を備えた風格ある建物です。国宝「聖武天皇勅書」(非公開)や「平田寺宝塔」をはじめ、数々の貴重な歴史資料を所蔵しています。2022年9月5~6日に同寺の客殿で、将棋王位戦七番勝負第5局が行われ、藤井聡太王位が挑戦者豊島将之九段に128手で 勝利しています

 田沼意知(たぬま おきとも)は、江戸時代中期の幕臣で、老中を務めた田沼意次の子です。彼自身も若くして出世し、1781年には若年寄に任じられました。若年寄は、幕政で老中に次ぐ重要な役職の一つで、特に江戸城内の儀式や将軍直属の旗本・御家人の監督を担っていました。天明4年(1781)、田沼意知は江戸城中(殿中)で、旗本・佐野政言(さの まさこと)により暗殺されました。この事件は「佐野の殿中刃傷事件」とも呼ばれています。佐野政言は、田沼の政治への不満、個人的怨恨が動機とされており、幕府の権威を揺るがす大事件となりました。この暗殺事件は、父・田沼意次の失脚を招く一因となり、田沼政権の終焉を早めたとされています。事件後、幕府は田沼派を遠ざけ、改革派の松平定信が台頭するきっかけにもなりました。田沼意次は天明6年(1786)に田沼家菩提寺の本堂を再建しましたが、落慶の際には田沼意知の三回忌法要も営まれ、そのときに供養塔が建立されたと伝わります



       


                                                                                                                                                      * 写真は一部、web上から拝用させていただいています