田沼意知(たぬま おきとも)は、江戸時代中期の幕臣で、老中を務めた田沼意次の子です。彼自身も若くして出世し、1781年には若年寄に任じられました。若年寄は、幕政で老中に次ぐ重要な役職の一つで、特に江戸城内の儀式や将軍直属の旗本・御家人の監督を担っていました。天明4年(1781)、田沼意知は江戸城中(殿中)で、旗本・佐野政言(さの まさこと)により暗殺されました。この事件は「佐野の殿中刃傷事件」とも呼ばれています。佐野政言は、田沼の政治への不満、個人的怨恨が動機とされており、幕府の権威を揺るがす大事件となりました。この暗殺事件は、父・田沼意次の失脚を招く一因となり、田沼政権の終焉を早めたとされています。事件後、幕府は田沼派を遠ざけ、改革派の松平定信が台頭するきっかけにもなりました。田沼意次は天明6年(1786)に田沼家菩提寺の本堂を再建しましたが、落慶の際には田沼意知の三回忌法要も営まれ、そのときに供養塔が建立されたと伝わります
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