著名人の墓参 |
昨年、傘寿を迎えた史跡散策愛好者の3人は、新年早々、それぞれの家の墓参を済ませました。そんな中、身近に眠っていながら、訪れたことのない著名人を墓参をすることをふと思いつき、訪れてみることにしようということになりました。美空ひばり、没後30余年が経ちながら、いまなお、クルマに乗って、ラジオを掛けると、その歌声が流れてくる。一昨年、目黒区青葉台の「美空ひばり記念館」を訪れたこともあり、仲間も是非、墓参に行きたいと言い出したことから、横浜市港南区にある日野公園内にある美空ひばりさんの「墓参り」のプランが立ち上がりました。ひばりさん一人だけでは、少々、物足りないと思っていたところ、高倉健さんの没後10年の特集がNHKで放映されました。高倉健さんの供養墓が、鎌倉光明寺にあります。また、この寺の近くにある北条政子が開基した安養院には、映画監督・黒沢明、そして妙本寺には、最近、その存在に光が当たるようになった源頼朝の孫で、鎌倉幕府第4代将軍頼経の妻・源媄子(よしこ)の墓がある。そして、その通り道の本覚寺には、鎌倉期の刀剣家五郎政宗もいる。さらに、ここから少し走った鎌倉霊園には、多くのユダヤ人を救ってイスラエルの恩人として、知らぬ人はいないと言われる杉原千畝、そして、司馬遼太郎作「坂の上の雲」主人公で、日露戦争において海軍作戦参謀としてロシアバルチック艦隊を殲滅させる作戦を立案した秋山真之がいる。それぞれ離れた場所に眠っているがクルマで移動すれば、一日で墓参は可能である。これで決まりだ。
2025年1月7日(火)10時、磯子駅前に集合して、墓参りを開始しました。 |
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美空ひばり |
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美空ひばり(1937 - 1989)は、日本の昭和を代表する歌手・女優であり、「昭和の歌姫」として広く知られています。本名は加藤和枝。幼少期から歌唱力を発揮し、1949年に映画『悲しき口笛』の主題歌でデビューすると、一躍国民的スターとなりました。
その後、多くのヒット曲を生み出し、映画や舞台でも活躍しました。彼女の代表曲には「川の流れのように」「リンゴ追分」「お祭りマンボ」などがあります。特に「川の流れのように」は、彼女の死後に発表された曲で、歌謡史に残る名曲として愛され続けています。彼女の歌は、人々の心に深く染み入り、戦後の復興期から高度経済成長期にかけての日本を象徴する存在でした。
美空ひばりは、1989年に52歳で急逝しましたが、その後もその名声は衰えることなく、日本の音楽文化に多大な影響を与え続けています。彼女の音楽とその生涯は、時代を超えて多くの人々に感動と勇気を与えています。
♪ 川の流れのように ♪ |
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源媄子(よしこ) |
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源媄子(よしこ)は、鎌倉幕府第2代将軍頼家の娘(一幡、公暁は異母兄または同母兄)。成人してから第4代将軍・藤原頼経の正室となりました。彼女は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の孫にあたり、尼将軍と呼ばれた北条政子の庇護のもとに幼女期から育てられました。源氏の血筋を引く人物として、その存在は政治的にも重要視されました。喜2年(1230)29歳で13歳の第4代将軍藤原頼経に嫁ぎました。夫婦仲は円満であったと伝えられ、その4年後に懐妊し、後継者誕生の期待を周囲に抱かせたが、難産の末に男児を死産し、本人も死去してしまいました。享年33。これにより頼朝の直系子孫はすべて死に絶え、源氏将軍の血筋は断絶しました。
源媄子の具体的な政治活動や個人の詳細な記録は少ないものの、彼女は竹の御所とも呼ばれ、その存在は鎌倉幕府の歴史において、源氏の血統維持という象徴的な役割を果たしたといわれています。 |
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妙本寺 祖師堂 |
妙本寺 比企能員(よしかず)一族の墓 |
黒澤 明 |
黒澤明(1910-1998)は、日本を代表する映画監督であり、世界的にその名を知られています。1936年に映画業界に入り、1943年に監督デビュー。彼の作品は、ストーリーテリングの独創性や映像美で高く評価されています。代表作には『羅生門』『七人の侍』『生きる』などがあり、これらは国際的な映画祭で数々の賞を受賞しました。黒澤の映画製作の哲学は、細部にこだわる完璧主義、普遍的なテーマの探求、そして人間性の深い洞察に基づいています。彼は物語の中で人間の矛盾や苦悩を描き、観客に深い感動を与えました。また、自然の力を巧みに活用した映像美も彼の特徴です。黒澤の影響は世界中の映画監督に及び、スティーブン・スピルバーグやマーティン・スコセッシなど、多くの著名な映画人が彼から影響を受けたと公言しています。彼の作品は、サムライ映画を世界に広め、日本文化への理解を深めるきっかけとなりました。墓所の災難として知られるのは、2013年に黒澤の墓所が台風で破壊される事件が発生したことです。この出来事は多くの人々に衝撃を与え、黒澤の遺産を守る重要性が再認識されました。 |
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黒沢明の墓は、北条政子が開基した安養院にある |
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五郎政宗 |
五郎政宗(ごろうまさむね)は、日本の刀工として非常に高名な人物です。
出自:五郎正宗は、鎌倉時代後期(13世紀末から14世紀初頭)の相模国(現在の神奈川県)に生まれたとされています。正宗の出自については詳細な記録が少なく、特に若年期の情報はほとんど伝わっていませんが、彼は相模国の刀工であった伝説的な名工、藤三郎正宗の弟子または後継者とされています。
名声:五郎正宗の名声は、その卓越した技術と刀の美しさ、切れ味に由来します。彼の刀は「正宗」として知られ、後の時代においても非常に高く評価されました。
正宗の刀は、特に以下の点で評価されています:
〇刃文(はもん): 刀の刃の模様である刃文が非常に美しいとされています。特に「沸(にえ)」と呼ばれる細かな粒状の模様が特徴です。
〇硬度と柔軟性のバランス:
刀は非常に硬く、同時に適度な柔軟性を持ち合わせているため、実戦での使用に適していました。
歴史的評価: 後の時代の刀剣愛好家や武士たちにとっても、正宗の刀は憧れの的であり、多くの名将が彼の刀を所持していたことが記録されています。生涯五郎正宗の生涯についての正確な情報は少ないですが、彼は鎌倉時代後期から南北朝時代初期に活躍したとされ、没年は1350年頃と推定されています。彼の作刀はその後も高く評価され、多くの弟子を育てました。
正宗の流派は「相州正宗派」として知られ、多くの名工を輩出しました。正宗の刀は、その後の時代においても収集家や武士たちにとって価値のあるものであり、重要文化財や国宝に指定されているものもあります。彼の名声は現代に至るまで続いており、「正宗」という名は日本刀の代名詞とも言えるほどです。
五郎正宗の作品:その芸術的価値と歴史的意義によって、今でも多くの人々に愛されています。
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高倉 健 |
高倉健 は日本の伝説的な俳優であり、その生涯は多くの人々に感銘を与えました。以下に、彼の生い立ち、評価された映画、人生観、趣味についてまとめます。
生い立ち
高倉健は1931年2月16日に福岡県中間市で生まれました。本名は小田剛一(おだごういち)。家族は炭鉱業に従事していました。幼少期から、戦後の厳しい環境の中で育ち、早くから労働に従事しました。その後、明治大学商学部に進学し、卒業後に東映に入社しました。
俳優として評価された映画
高倉健は、数多くの映画で主演を務め、その硬派で寡黙な役柄で知られています。以下は特に評価された映画の一部です:
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『網走番外地』シリーズ(1965年 - 1972年)
彼の代表作として知られ、網走刑務所からの脱走を描いたこのシリーズは、大ヒットを記録し、高倉健の地位を不動のものにしました。
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『幸せの黄色いハンカチ』(1977年)
山田洋次監督の作品で、刑務所から出所した男性が新たな人生を見つける姿を描いたこの映画で、高倉健は日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞しました。
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『ブラック・レイン』(1989年)
リドリー・スコット監督のハリウッド映画で、彼の国際的な評価を高めました。
この映画で共演したマイケル・ダグラスは、高倉の英語力はもとより、迫真の演技力を
称賛しています
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『あなたへ』(2012年)
彼の遺作となったこの映画は、亡き妻の遺言を果たすために旅をする男を演じ、深い感動を呼び起こしました。余談:この映画の舞台は、長崎県平戸市。
人生観
高倉健は、非常に寡黙で慎み深い性格として知られており、その人生観もまたシンプルで誠実なものでした。彼は「自分の行動に責任を持つこと」「誠実であること」を大切にし、多くのインタビューで謙虚さを貫いていました。また、「生涯現役」を貫く姿勢もあり、晩年まで俳優としての活動を続けました。
☆ 高倉健と江利チエミは1959年に結婚しましたが、1971年に離婚しました。高倉健は生涯にわたりプライベートなことをあまり公に語らなかったため、彼の心情について詳細に知ることは難しいです。ただし、彼の自叙伝やインタビューの中で、江利チエミとの結婚について触れたことがあります。高倉健は、江利チエミのことを「心から尊敬していた」と述べ、離婚後も彼女への感謝の念を持ち続けていたといわれています。また、離婚後も二人は友好的な関係を保っていたと言われています。
江利チエミが、1982年に急逝した際、高倉健は深い悲しみを感じていたと報じられています。 このように、高倉健は江利チエミを尊敬し、彼女との関係に対して感謝の気持ちを抱いていたと考えられます。
趣味
高倉健は、自然を愛し、アウトドアを楽しむことを趣味としていました。特に、山登りや釣りなどを好んで行い、自然の中で過ごす時間を大切にしていました。また、読書家でもあり、文学作品に親しむことも彼の趣味の一つでした。
高倉健の生き方や映画は、多くの人々に感動を与え、彼の不朽の名作は今もなお愛されています。
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意匠:外観の形、色、模様、配置などについて工夫した意匠(いしょう)とは、製品の形状、
模様、色彩など、視覚的な美しさや独自性を備えたデザインのことを指します |
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杉原千畝 |
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杉原千畝(すぎはら ちうね、1900年1月1日 - 1986年7月31日)は、第二次世界大戦中に多くのユダヤ人をナチスの迫害から救った日本の外交官として知られています。その生涯と人生観をいくつかの側面から述べます。
生涯
初期の生活と教育
杉原千畝は岐阜県で生まれ、幼少期から語学や国際問題に興味を持っていました。京都帝国大学で学び、後に外交官としての道を歩むことになります。
外交官としてのキャリア
1939年、リトアニアのカウナス領事館に副領事として赴任しました。この時期、ナチス・ドイツの台頭により、多くのユダヤ人が迫害を受け、逃亡を余儀なくされました。
ビザ発給とユダヤ人の救出
1940年、杉原は日本政府の指示に反して、ユダヤ人難民に対してビザを発給しました。彼は「命のビザ」として知られるビザを発行し、約6,000人のユダヤ人の命を救いました。この行動は自身と家族の将来を危険にさらすものでしたが、杉原は人道的な義務を優先しました。
戦後の生活
戦後、杉原は外交官としてのキャリアを失い、日本で静かに暮らしました。彼の功績が広く知られるようになったのは晩年になってからです。1985年、イスラエル政府は彼に「諸国民の中の正義の人」の称号を授与しました。
人生観
杉原千畝の人生観は、彼の行動から次のように読み取ることができます。
人道主義と勇気
杉原は、人間としての基本的な善意と道義心を持って行動しました。彼の行動は、法律や命令よりも人道的な価値観を優先することができる人間の勇気を示しています。
普遍的な倫理観
彼は自分の行動について「自分がやるべきことをしただけだ」と語っています。この言葉は、すべての人間が持つべき普遍的な倫理観を表しており、自分の信念に従って正しいことを行う姿勢を象徴しています。
自己犠牲
自身のキャリアや家族の安全を犠牲にしてでも、多くの命を救うために行動した杉原の人生は、他者のために尽くすことの重要性を示しています。
杉原千畝の生涯は、困難な状況下でも人間として正しい行動をとることの大切さを示すものであり、その勇気と人道主義的な行動は今なお多くの人々に感銘を与えています。 |
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秋山真之 |
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♪ 坂の上の雲/Stand Alone ♪ |
秋山真之(あきやま さねゆき、1868年 - 1918年)
日本の海軍少将であり、日露戦争における功績で知られています。彼の生い立ち、友人、生涯、才能、そして軍人としての使命感について以下に述べます。
生い立ちと家族背景
秋山真之は、1868年2月12日に松山藩(現・愛媛県松山市)に生まれました。彼は、秋山久敬の三男として育ち、兄の秋山好古も有名な軍人でした。松山藩士の家に生まれた真之は、幼少期から武士の精神を受け継ぎ、学問にも励みました。
友人と人間関係
秋山真之は、同じく松山出身の正岡子規や夏目漱石と親交を持ち、文学や詩にも関心を寄せました。特に正岡子規とは深い友情で結ばれ、互いに影響を与え合いました。彼らとの交流は、真之の感受性や思考に大きな影響を与え、軍人としての彼の一面にも豊かさをもたらしました。
生涯と軍歴
秋山真之は、1889年に海軍兵学校を卒業し、海軍に入隊しました。日清戦争や日露戦争において戦略家として頭角を現し、特に日本海海戦では、司令部参謀として連合艦隊のT字作戦立案に大きく寄与しました。
海戦は、連合艦隊の巧みな艦隊運動と有効な砲撃が功を奏し、砲撃開始から30分でほぼ決着がつき、バルチック艦隊に沈没艦21隻、拿捕、中立国抑留艦12隻、戦死者5000名、司令官ロジェストヴェンスキー中将を含む捕虜6000名の損害を与え、連合艦隊は水雷艇3隻沈没、戦死者107名、戦傷者583名という、海戦史上に類を見ないほぼパーフェクトで勝利しました。
この海戦での勝利は、日本海軍の地位を国際的に高め、真之の名声を不動のものとしました。
その後も軍務に励み、海軍少将に昇進しましたが、健康を損ね、1918年に50歳でこの世を去りました。
才能と軍人としての使命感
秋山真之は、戦略立案において卓越した才能を持ち、洞察力と冷静な判断力で知られていました。彼は、戦局を的確に分析し、効果的な戦術を考案する能力に長けていました。また、彼の文学的素養や教養もありバルチック艦隊と戦うために連合艦隊が出動したときの「天気晴朗ナレドモ波高シ」の電文や、連合艦隊が戦時編成を解いたときの解散の辞は、秋山真之参謀が起案し、東郷元帥が文筆したもので、米国大統領 セォドア・ルーズベルトは、この訓示に感銘を受け、その英訳文を米軍の将兵に配布しています。このように真之は戦略の立案においても、柔軟な思考を使命に果たしていました。
彼の軍人としての使命感は、
国家の安全と繁栄に対する強い責任感に根ざしていました。彼は、海軍の発展に尽力し、日本の防衛に全身全霊を捧げました。真之の人生は、祖国への愛と義務感に満ちたものであり、その姿勢は多くの後進に影響を与えました。
秋山真之の生涯は、日本海軍の歴史において輝かしいものであり、彼の戦略家としての才能と使命感は、後世に語り継がれています。
ロシア・バルチック艦隊を壊滅に追いやった日本海軍作戦参謀 秋山真之
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