赤羽界隈

稲付

  稲付城は、奥州街道上の主要地点であった岩淵(いわぶち)宿の近くに、江戸城と岩槻(いわつき)城を中継するための山城として、戦国時代初期の武将太田道灌(どうかん)により築かれた城です。 道灌の死後も城郭としての機能は有したが、江戸時代に入り、明暦元年(1655)に、道灌の子孫太田資宗(すけむね)が、幕府による一国一城の法令に従って、軍事上の機能を取り壊し、城内に真言宗寺院の堂舎を建立しました。そして太田氏の菩提寺とし、寺号は道灌とその父資清(すけきよ)の法号に因んで、自得山勝寺と命名し、今日に至っています。寺内にある道灌堂には、太田道灌の木像が安置されている都指定の史跡です。