野火止塚・野火止用水路
野鳥の森
野火止用水路
 野火止用水
開削の立役者は松平信綱です。 川越藩主として地元の経営に手腕を発揮しますが、むしろ幕府の実力者として、幕府財政、武蔵野の新田開発に力を発揮したことが評価されています。多摩地域には関東ローム層の乾燥した武蔵野台地が広がり、生活用水に難渋する乏水(ぼうすい)地帯の原野でありましたが、近世には江戸幕府開府に伴い用水確保のため江戸近郊の開発が加速しました。承応2年(1653)、幕府老中で上水道工事を取り仕切っていた川越藩主松平信綱は、多摩川の水を羽村から武蔵野台地を通す玉川上水を開削させました。その後、玉川上水から領内の野火止村への分水が許されました。

承応4年(1655)、家臣の安松金右衛門に頭領、小畠助左衛門(こばたけ)に補佐を命じ、野火止用水を作らせました。安松と小畑は地元の農民や普請人足を千人単位で動員し、労賃を金・銀子3000両と数百俵の米を日当で支給して、その距離約24kmを工期僅か40日で開削しました。そして玉川上水7、野火止用水3の割合で分水しました。野火止用水は、主に飲料水や生活用水として利用され、後に田畑用水としても利用されるようになりました。まさに、笹藪が生い茂る原野が今日、豊かな農作物が収穫できる土地の礎が築かれたのです。開削に前後して川越藩では農民や家臣を多数入植させ、大規模な新田開発を行いました。野火止用水の開削によって人々の生活が豊かになったことを信綱に感謝し、野火止用水を信綱の官途名(かんどな)である「伊豆守」にあやかって伊豆殿堀と呼ぶようになりました。
新座市立野寺小学校の校歌には「めぐみの水よ 伊豆堀よ」という歌詞があるほか、同市立西堀小学校でも「智慧伊豆の流れを汲んで」と、信綱と安松ら、功労者たちの人柄や向学心を歌詞とした校歌が歌われています。野火止用水は、史跡公園で本流と平林寺へ分岐する平林寺堀と陣屋堀に分かれています。
(新座市広報より)