玉川上水を歩く   Part.1   〔2017年7月10日〕
 慶長8年(1603)徳川家康によって江戸に幕府が開かれると、江戸は急速に発展し、多くの人々が集まってきました。その後、三代将軍家光の頃に、参勤交代の制度が導入されると、大名やその家族、家臣が江戸に住むようになり、人口増加に拍車がかかりました。もはや既存の上水だけでは足りなくなり、水不足が深刻な問題となりました。新しい水道の開発が迫られるようになったのです。そこで、多摩川の水を羽村から取り入れ、武蔵野台地を掘って、はるばる四谷大木戸まで流し、そこから先の江戸の市中は石や木でつくられた樋(水道管)によって給水する壮大な計画が立てられました。承応元年(1652)、幕府は工事総奉行に老中松平伊豆守信綱、水道奉行に伊奈半十郎忠治を任命し、請負人を庄右衛門、清右衛門兄弟に決定して、承応2年(1653)4月4日に着工しました。多くの苦難がありましたが、わずか8か月後に、羽村取水口から四谷大木戸まで、崩れの補強を行わずに掘削する素掘りによる水路が完成しました。全長約43km、標高差はわずか約92メートルの緩勾配(緩い傾斜)です。羽村からいくつかの段丘を這い上がるようにして武蔵野台地の稜線に至り、そこから尾根筋を緻密な計算で巧みに回遊させて四谷大木戸まで到達する自然流下方式による導水路を完成させたのです。この玉川上水は、江戸260年間ばかりでなく、明治に至っても、江戸、東京の発展に多大な貢献が成されたのです。今回、この偉業の玉川上水を肌で感じて見ようと思い立ち、源流の羽村堰から暗渠に入る前の浅間橋までを歩くこととしました。
 阿蘇神社
阿蘇神社
創建は推古天皇 9年(601)とされ、933年に平将門が社殿を造営しています。天慶3年(940)将門を討った
武将・藤原秀郷が平将門の霊を鎮めるためとして修復しています。その後、平将門の子孫と称する三田氏が
天文5年(1536)に社殿を修復しました。また、慶長3年(1598)には徳川家康が参詣したとされています。 
 禅林寺
 中里介山 (なかざと かいざん)
  小説家。東京羽村生。名は弥之助、号は羽村子。はじめ社会主義に傾倒し、日露戦争下には「平民新聞」に反戦詩を発表しました。明治39年都新聞社に入社、『氷の花』『島原城』などの連載小説を手がけ、代表作『大菩薩峠』はのちの大衆文学に大きな影響を与えました。のち郷里羽村に西隣塾を開き、文壇から離れて超然とした生活を送りました。昭和19年(1944)歿、60才。
大木を杉玉に形取る 多摩川土手を行く
 拝島大師
拝島大師  (はいじまだいし) 拝島大師は昭島市拝島町にある天台宗の仏教寺院で本覚院が正式な名称です。大日八坊の一つで、比叡山延暦寺の中興の祖として知られる良源(諡号は慈恵大師(じえだいし)。一般には通称の元三大師(がんざんだいし)の名で知られています)を本尊として祀っています。本尊の元三慈恵大師像は良源が自らの姿を刻んだものとされ、本来は比叡山横川の地に祀られていたと言われます。寺伝によれば、元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちの際に、敬諶(けいたん)大僧都は大師像を持ち出しました。敬諶は諸国放浪の末、天正6年(1578)この地に大師像を安置し本覚院を創建したと伝えられています。正月23日の縁日は「だるま市」として有名であり、初詣とあわせて多くの参拝者で賑わいます。
 
 歩行区間:羽村堰~玉川上水駅    本日の歩数:31,025歩、  距離:18km