下総国散歩  関宿・古河       
  2017年5月10日(水)、千葉県に住む西川氏が用意してくれたクルマで関宿、古河の散策に出向いた。両地とも江戸時代譜代大名が治める幕府にとって重要な領地だったのである。どんな所か、初めて踏み入れる町なので、ワクワクしながら散策であった。予定としては、前半は関宿、後半は古河を訪れることにした。

 
  
(写真左より)
伊奈忠次 (15501610)伊奈忠治 (15921653 )父子
  江戸時代の関東郡代伊奈氏の祖・備前守忠次と半十郎忠治父子はともに江戸時代前期の河川改修工事に大きな業績を上げました。忠次は、今日備前堀の名で残っている領内用水路工事や新田開発に力を尽くした。忠治は利根川、江戸川、権現堂川などの改修や瀬替えを行いその土木工法は関東流と呼ばれました。これらの河川工事は「利根川東遷」に直結しており、伊奈氏は関東の河川流路の基礎を築いた中心的存在でした。

田沼意次

 老中田沼意次は、吉宗治世の享保年間(171636)に続き、印旛沼を干拓して新田を開発するとともに検見川まで掘割を作り、水運の便を図ろうという大規模な計画を立てました。豪商たちの出資により天明2年(1782)に着工されたが、完成を間近にした天明6年(1786)大洪水が発生し、土手が壊滅するという不運に見舞われた。その直後、10代将軍の逝去に伴って意次が失脚したため、干拓工事は中断となった。 

コーネリス・ファン・ドルーン Cornelis Van Doorn】 (18371906
  明治5年(1872)、オランダ人技師の長としては配下のリンドウとともに来日した彼は利根川改修工事のため全流を踏破し、良水標を初めて設置しました。彼の著した「泗水総論」は、日本の治水土木の教科書的役割を果たし、利根川踏査後もオランダ技師リーダー格として主要河川・港湾工事を指揮しました。

ヨハネス・デ・レーケ  Johannes D’rike 】(18421913) 
  明治6年(1873)に来日し、30年の長きに亘って日本の治水事業に寄与しました。明治8年の粗朶沈床(そだちんしょう・ケレップ水制)を施した他、彼が導入した多くの工法は内務省発行の「土木要録」に収められるなど、その後の日本治水土木に多大な影響を与えました。

光岳寺
 
 鈴木貫太郎記念館
 関宿関所跡
実相寺
大龍寺 
 宗英寺
 
 川越夜戦で敗れた第4代 古河公方・足利晴氏の墓 徳川家康異父弟・松平康元墓
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