ヒッポドローム
ヒッポドロームはブルーモスクの西隣にあり、ビザンティン帝国時代に競馬や戦車競走が行われた競技場でした。競技場の広さは長さ450m、幅130m。12の門があり、10万人の観客を収容できたといいます。戦車競走は当時、とりわけ人気の高い競技で、そうした娯楽を市民に提供することは、「パンとサーカス」の言葉のとおり、当時の皇帝の大切な役割の一つでした。532年1月、この競技場で歴史的な事件が起こります。対立する戦車競技の応援団の喧嘩がもととなり、それまで鬱積していた市民の不満が爆発、周囲の建物への放火、略奪、ひいては皇帝を引きずり下ろそうとする大暴動へと発展したのです。この時、市民が合い言葉にしたのが「ニカ(勝利)」という言葉でした。そのため、この事件は「ニカの乱」と呼ばれています。
聖ソフィア大聖堂(現在のアヤ・ソフィア)もこの時の火災で焼失。現在の建物は、この騒乱の後、市民の気持ちをおさめるために、ユスティニアヌス帝が帝国の威信をかけて再建したものなのです。騒動のあまりの大きさに、ユスティニアヌス帝は一時、すべてを捨てて逃げ出そうとします。しかし、皇妃テオドラの「帝衣こそが最高の死装束」との言葉に思いとどまったといいます。結局、暴動は軍隊により鎮圧。その時にヒッポドロームでは3万人の市民が殺され、そのまま埋められました。現在も地下には数多くの人骨が眠っていると考えられています。
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