2018年10月30日(火) |
本日は散策箇所が多いので、7時10分にホテルを出る。二条城方面行きのバスに乗って、二条城の南方にある神泉苑から散策を始めることにしたが、神泉苑手前に徳川慶喜が将軍になる前、御所守衛総督役に就任しているときに住まいした小浜藩藩邸跡を訪れた。つづいて、神泉苑を散策し、その後、隣接する二条城に入ろうと大手門に行ったら、9時まで開園できないといわれ、1時間余りこの場で入園時間を待つのはもったいないと思い、二条城前から北野神社方面に行くバスのあることが分かったので、予定変更したバスに乗り込んだ。こうして、本日は北野神社、上七軒通り、千本釈迦堂、平野神社、等持院、蓮華寺、仁和寺、妙心寺そして二条城に戻り、京都所司代跡を散策する長い1日が始った。 |
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旧小浜藩邸跡 |
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神泉苑 |
神泉苑は平安遷都と同時期に大内裏の南に造営された。当時は広大な敷地に楼閣や釣殿があり、ここで天皇・公家の遊宴や祈雨の儀式が行われた。 |
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神泉苑は、平安京(大内裏)の南東隣りに位置し、八町の規模を有する苑池であり、禁苑とされています。苑内には、大池、泉、小川、小山、森林などの自然を取り込んだ大規模な庭園が造られており、敷地の北部には乾臨閣を主殿とし、右閣、左閣、西釣台、東釣台、滝殿、後殿などを伴う宏壮な宮殿が営まれていました。法成就池に掛かる太鼓橋は法成橋と言います。 |
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つづいて、近くの二条城に入るところ、開館時間まで40分もあるので、後で戻ることにして、バスで北野天満宮へ行くこととした |
北野天満宮 |
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菅原道真
北野天満宮は菅原道真を祀った神社である。菅原氏のルーツは古代豪族の土師(はじ)氏である。桓武天皇の時、土師氏は桓武天皇の許しを受けて奈良の菅原の地名から菅原氏と改姓する。この菅原古人が、菅原道真の曽祖父である。若き日の道真は出世をかさね、文章(もんじょう)博士に至る。祖父も父もつとめた、ほまれ高い役職であったが、道真は周囲の妬みを買うことになる。讃岐守として地方での仕事は、道真にとって気のりしないものだった。四年間の任期中、阿衡事件(あこうじけん)が起きた。宇多天皇と太政大臣・藤原基経の対立の間にあって、学者の橘広相(ひろみ)が処罰されそうになった。道真は都にのぼり、藤原基経に「これ以上紛争を続けるのは藤原氏のためにならない旨を認めた長文の意見書を奉じて諫めたことで、基経は怒りを収めた。これで事件は終息し、宇多天皇は大いに道真を称賛し、のちに讃岐から都に戻して右大臣に任官させた。道真は大いに手腕を発揮して活躍し、その一つに寛平6年(894)260年あまり続いた遣唐使の廃止がある。宇多天皇が在位の間は、道真は順風満帆であったが、醍醐天皇の世になると、儒家としての家格を超えて大臣に登るという道真の破格の昇進に対して妬む廷臣も多くなり、左大臣藤原時平が動き出した。昌泰4年(901)正月、道真は従二位に叙せられたが、間もなく醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったと誣告され、罪を着せられて、右大臣から一転して、大宰員外帥(だざいのごんのそつ)に左遷させられた。左遷後は大宰府浄妙院で謹慎していたが、延喜3年(903)2月25日に大宰府で薨去し、安楽寺に葬られた。享年59。
東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ 道真 |
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御土居 |
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上七軒 |
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上七軒(かみしちけん)は花街である。室町時代に北野天満宮の再建の際に残った資材を使って7軒の茶店を建てた。これが「上七軒」の由来で、桃山時代に豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた折に茶店側は団子を献上して大いに誉められた。また近くにある西陣との結びつきから華麗な衣装を纏う芸妓が多く集まり花街として大いに繁栄を極めた。江戸末期には新撰組・土方歳三が芸妓と浮名を流したという逸話がある。
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大報恩寺 (千本釈迦堂) |
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大報恩寺(だいほうおんじ)
京都市上京区にある真言宗智山派の寺院。山号は瑞応山。千本釈迦堂と通称される。おかめの物語や、12月の風物詩である大根焚きで知られる。また、智積院能化の隠居所として、護持された。新西国三十三箇所第16番札所。鎌倉時代初期の承久3年(1221)求法上人義空によって創建された。義空は藤原秀衡の孫で比叡山で修行の後、当寺を建立した。室町時代の勧進状によれば、猫間中納言と呼ばれた藤原光隆の従者であった岸高なる人物が境内地を寄進したという。当初は草堂であったが、摂津国尼崎の材木商の寄進を受けて現存する本堂が完成した。昭和26年(1951)本堂解体修理時に発見された義空の願文により、本堂は安貞元年(1227)の上棟であることが判明している。『徒然草』228段には「千本の釈迦念仏は文永の頃、如輪上人これを始められけり」と、当寺に言及されている。本堂の建立に関して大工の妻の「おかめ」に関する伝説が伝えられている。倶舎(くしゃ)・天台・真言の三宗兼学を朝廷より許された。この本堂は応仁・文明の乱にも焼けることはなく創建当時のもので洛中最古の建造物で国宝となっている。
大報恩寺には近隣の北野天神(北野天満宮)門前にあった「北野経王堂」の遺物も保管されている。 |
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北野経王堂願成就寺
このお堂は、足利三代将軍義満の時、明徳二年(1391)11ヶ国の大領主陸奥大守山名氏清 が将軍家に叛いて挙兵した「明徳の乱」で逆に義満により”内野の原”にて討滅されてしまった。その翌年に将軍義満は叛いたとは言え氏清とその一族のかっての功労武勲を称えるとともに、戦に倒れた敵、味方の兵士達の追福の為、壱千百人の僧侶を集めて供養した。そして応永八年(1401)には北野社の社頭に東山三十三間堂に倍する大堂を建立し「北野経王堂願成就寺」と命名名して、毎年10月、10日間に亘って万部経会並びに経典書写などの仏事を行ない供養してきた。この行事は「北野経会」と呼ばれて京洛最大の行事となり、代々の幕府により引継がれている。観世流謡曲「輪蔵」はこの一切経の「輪蔵」を謡ったものである。この大堂も江戸期に入ると荒廃してきて、遂に寛文11年(1671)に解体縮小されて小堂となり、仏像及び一切経五千余巻、義満筆による経王堂額の遺品が本寺霊宝殿に移され保存されています。解体された遺構の木材で縮小復元されたのがこのお堂であります。お堂の右前には山名氏清の武勲を讃えた碑が建てられています。 |
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平野神社 |
平野神社は延暦13年(794)に桓武天皇の命により、現在の地に祭神が祀られたことに始まる古社である。桓武天皇は平安遷都に際し、生母、高野新笠姫が中心となり大陸文化を導入したことを平安京の都造りに大いに貢献したとその功績をたたえ、祭神の1人として祀られているという。創始以来、皇室の崇敬あつく、天元4年(981)に円融天皇がはじめて行幸して以来、歴代の天皇が行幸したといわれている。拝殿には寛文年間(1661〜1673)に絵師・海北友雪が描いたとされる三十六歌仙の文化財絵が掲げられていたが、今年9月の台風で拝殿は倒壊してしまい文化財も失った。この神社は桜の名所として知られており、境内にある500本の桜は圧巻である |
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拝殿が建っていたところは工事用の枠網で囲われて入りことはできない。 |
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等持院 |
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近隣周辺 |
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後白河天皇の長男。統制令や荘園整理など積極な
政務を展開するが、病のため23歳で崩御。 |
等持院の守護社 |
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仙壽院 |
仙寿院は妙心寺の北、龍安寺の南に建つ妙心寺の境外塔頭の一つである。大阪夏の陣後の頃、江戸幕府は宮中、公家に対して「公家中諸法度」を発布し、年号の定め方,天皇以下公家の衣服,諸公家の昇進の次第、そのうえ僧侶の号や紫衣(しえ)勅許の条件などにも規正、干渉をするようになった。即位して、間もない後水尾天皇は江戸幕府に不快感を持つようになり、朝幕関係がぎくしゃくする状態になっていた。幕府は朝廷の機嫌を和らげようと、1652年、修学院離宮造営などに支援するようになった。この仙寿院の造営も朝廷側の意向を汲入れて妙心寺196世禿翁妙宏に開創させたといわれている。 |
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仁和寺につづく道 |
石垣右が仁和寺境内 |
蓮華寺 |
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蓮華寺 (右京区)
天喜5年(1057)に後冷泉天皇の勅願により、藤原康基が開創した。その後、応仁の乱の兵火に遭い、寺地を鳴滝音戸山の山上に移し、長い荒廃の時代が続いた。伊勢生まれの江戸の豪商出身の常信が寛永18年(1641)に再興し、仁和寺の覚深法親王から寺号を改めて安堵された。今日も境内にその姿を見ることが出来る五智如来石像(大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来、宝生如来)も、この際に、常信が木食僧坦称に依頼して作成させたものである。昭和3年(1928)に御室に寺地を移した。昭和33年(1958)五智如来石像をはじめとして、離散・損傷していた石仏群を収集・修復して境内にあらためて祀った。
後冷泉天皇御詠歌
つみとがも やきほろぼさん ちかいにて ほのほのなかに たちませるみを |
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仁和寺 |
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仁和寺は、仁和2年(886)光孝天皇が「西山御願寺」の建立を発願し着工されたことに始まる。光孝天皇は翌年崩御するが、その遺志を継いだ宇多天皇が仁和4年(888)に完成させ、元号にちなんで仁和寺とした。真言宗御室派の総本山。本尊は阿弥陀如来。宇多天皇は退位して法皇となった後、仁和寺を住坊とし、以後、明治維新まで皇子皇孫が仁和寺の門跡(住職)となったことから御室御所と呼ばれた。応仁の乱の兵火によって焼失するが、寛永11年(1635)、仁和寺第21世の覚深法親王が上洛していた三代将軍家光に再興の申し入れをして承諾されこれに御所の建て替えも重なり、御所から紫宸殿、清涼殿、常御殿など建造物が下賜され、正保3年(1646)に再建が完了した。 |
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仁王門より中門を望む |
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多層漆塗り鏡のようにで輝く半蔀戸(はじとみど) |
金色に輝く錺(かざり)金具 |
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御影堂は宗祖弘法大師と宇多上皇を祀る仏堂で、京都御所の清涼殿の古材を用いて造られた |
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妙心寺 |
妙心寺は建武4年(1337)に創建された臨済宗妙心寺派大本山。日本にある臨済宗寺院約6,000ケ寺のうち、約3,500ケ寺を占める妙心寺派の大本山である。近世に再建された三門、仏殿、法堂などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成している。本尊は釈迦如来。建武2年(1335)落飾した花園法皇は大徳寺を開いた宗峰妙超に参禅して悟りを得ると、宗峰の弟子関山慧玄を開山として、花園御所を禅寺に改めた。これが宗峰が命名した「正法山妙心寺」のはじまりである。後年、妙心寺は仁和寺から広大な敷地を得ることになり、七堂伽藍や塔頭寺院が創建され大いに繁栄した。現在も山内塔頭は38院、境外塔頭は龍安寺をはじめ10院を数えている。
臨済とはD陀河のほとりに臨み、一切衆生を利済するという意味であり臨済禅の根本精神であるといいます。そして妙心寺派の「禅」は大徳寺を開山した大燈国師、その弟子で関山慧玄の師から一字づつ取って応燈関一流の禅と云われ、その根本は不立文字(ふりゅうもんじ・ 大切なことは文字で表すことではない)教外別伝(きょうげべつでん・ 心から心へ直接伝えられるもの)と説く。すなわち自分の足跡を残さない、頂相( ちんぞう ・肖像画や法語を弟子に与えること)も許さないことが真髄の教えと云う。 |
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三門は格式のある五間三戸二階建ての入母屋造り、木部に朱塗りの彩色を施し左右に平屋建ての参篭が付いている。二階には絢爛な観世音菩薩を中心にその脇左右に十六羅漢像が並ぶ |
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仏殿は日指状の裳階が付いた入母屋造り大きな釈迦如来が安置している。 |
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住持が説法を説く法堂には、飛鳥時代(698)に鋳造された黄鐘調の日本最古と言われる梵鐘が置かれている。天井には徳川幕府の御用絵師・狩野探幽が8年掛けて全身全霊を注いで描いた雲龍図は圧巻である。雲龍は仏法を守護し、火災からお堂を護る意が込められている |
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明智風呂
妙心寺の浴室は、天正15年(1587)妙心寺塔頭・太嶺院の僧・密宗(みっしゅう)が、明智光秀の菩提を弔うために建造しました。密宗は、光秀の叔父にあたる人物です。単層・切妻造・本瓦葺。内部には蒸し風呂の浴槽(サウナ)と、洗い場があり、入り口正面に位牌棚があります。供養するのに風呂を建てるというのは、不可解ですが、当時光秀は、主人信長を殺害した謀反人でしたので、墓などは建てられなかったため、その後ろめたさを洗い落とす意味で、あえて風呂を建てたと伝えられています
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松代藩主・真田信之の菩提寺。兵法学者佐久間象山の墓がある。 |
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春日局開基の菩提寺。海北友雪筆方丈襖絵を所有。 |
堀尾吉晴が創建。重文財。南蛮寺の鐘と狩野永岳の方丈襖絵を所有 |
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脇坂安治が創建。長谷川等伯筆方丈襖絵「水墨山水図」を所有。 |
仁和寺への近道 |
応燈関 (おうとうかん)
臨済宗(黄檗宗を含む)には現在15派あるとされています。つまり、本山と称するお寺が15あります。その中でも一番大きいのが京都・花園にある妙心寺です。日本にいる臨済宗の僧侶は全員が妙心寺を開いた関山慧玄国師の法統につながっています。その他の法統は絶えてしまっているのです。だから妙心寺が臨済宗の事実上の総本山と言っても良いかと思います。臨済宗の宗門大学とも言うべき花園大学も正眼短大も妙心寺の経営であります。臨済宗の法統は「応燈関一流の禅」と呼ばれています。これは「大応国師(南浦紹明 なんぽしょうみょう)」「大燈国師(宗峰妙超 しゅうほうみょうちょう)」「関山国師(関山慧玄 かんざんえげん)」の尊名から一字を取って並べたもので、関山慧玄国師が大応国師と大燈国師の偉業を讃え、「後昆直饒、老僧を忘却するの日ありとも、応燈二祖の深恩を忘却せば、老僧が児孫にあらず」と遺言書に記したことにあります。「自分のことは忘れても、大応国師と大燈国師のことは絶対忘れてはいけない、忘れるような者はわたしの弟子ではない」と遺言したのです。このことから関山国師の弟子筋にあたるものは、臨済宗の法統を「応燈関」と呼称する習慣となったと伝えられています。禅宗では修業が成就したときに、師は弟子に印可というものを与えます。つまり、大応から大燈へ、そして大燈から関山に印可が与えられたのです。
余談ながら、この3人の師弟関係について述べると・・・。
関山は大燈より5歳も年上なのです。そして関山は最初は大応に入門しますが、2年もたたずに大応が逝去してしまったのです。それから紆余曲折があった後、既に日本一の善智識とうたわれていた、かつての兄弟子でもある大燈国師の下へ行きます。この大燈国師という人はとにかく才気煥発な人であった。関山が大応国師に入門したその年に、大燈は26歳の若さで大応から印可を受けているのです。他宗派との法論で論破したり、その才気のほどを示した逸話が多く残されています。 |
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二条城 |
二条城は、慶長8年(1603)、江戸幕府初代将軍徳川家康が、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするため築城したものです。将軍不在時の二条城は、江戸から派遣された武士、二条在番によって守られていました。3代将軍家光の時代、後水尾天皇行幸のために城内は大規模な改修が行われ、二の丸御殿には狩野探幽の障壁画などが数多く描かれ、威厳と、権威を語らずして与え、大名たちは圧倒されました。この大広間で「大政奉還」の意思を表明したことは日本歴史上の出来事としてあまりにも有名です。二の丸庭園は池の中央に蓬莱島、左右に鶴亀の島を配した書院造りで、寛永3年(1626)に作事奉行・小堀遠州のもとで改修されました。高価で入手もむずかしいと云われた緑石片岩(青石)をふんだんに取り込んでいます。そして、庭園は二の丸御殿の大広間、黒書院、行幸御殿の3方向から鑑賞できるように作庭されています。完成したこの壮麗な城に、天皇を迎えることは、江戸幕府の支配が安定したものであることを世に知らしめた出来事でもあったのです。その他、本丸御殿、唐門など、約400年の時を経た今も絢爛たる桃山文化の遺構も見ることができます。平成6年(1994)、二条城はユネスコ世界遺産に登録され、徳川家の栄枯盛衰と日本の長い歴史を見つめてきた貴重な歴史遺産として伝えられていきます。 |
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京都所司代跡 |
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〔本日の歩数〕 34,870 歩 20.3km |
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