10月31日から3日間の主要散策地は下記のスライドショーでご紹介します
スライドショの写真は、白峰神社、相国寺、下鴨神社、金戒光明寺、平安神宮、建仁寺、
御香宮神社、伏見城、石清水八幡宮、適塾、大阪城、大阪天満宮の順に表示されます
2018年10月31日(水)
  本日はホテル近くの交差点から堀川今出川行のバスに乗り込んで、バス停近くの白峰神社散策を開始する。保元の乱で敗れ、讃岐に流された崇徳上皇を祀り、当地が蹴鞠の大家飛鳥井戸雅経の屋敷があった所から、蹴鞠発祥の地→サッカーの守護神として蹴球関係者の篤い信仰が生れ、ワールドカップ開催時には、多くのサッカーファンが参拝に訪れたと云う。この神社を皮切りに、報恩寺、表・裏千家修行場兼庵、妙顕寺、相国寺、上御霊神社、西園寺、天寧寺、下鴨神社、廬山寺、清浄華寺、金戒光明寺、平安神宮、白河院跡、満願寺、これからバスで移動して祇園に向かい、八坂神社、建仁寺そして方広寺、豊国神社まで日が暮れる時間になっておりました。お疲れ!! 歩数35,000余でした。
 白峰神社
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
われても末にあはむとぞ思ふ
  
         
崇徳上皇
みよしのの山の秋風さよふけて
ふるさと寒く衣打つなり

          
大納言飛鳥井雅経
本阿弥光悦屋敷跡
報恩寺  ・茶道庵(表千家、裏千家)  ・本法寺  ・妙顕寺
 浄土宗報恩寺は「つかずの鐘」の伝説があり、筑前藩主・黒田長政が急死したのはこの寺院である 
 日蓮宗 本法寺
 永享8年(1436)日親上人が住持のとき「立正冶国論」という意見書を室町六代将軍義教に献上しました。この意見書には「禅を捨てよ」という主張が強く唱えられていました。この傲慢と思える振る舞いに将軍義教は激怒し、日親を投獄し残忍な拷問を課しました。それでも屈しない日親に対し、ついに頭上に灼熱の鍋をかぶせ舌端を切り、日親の言葉を奪う拷問を受けたといわれています。斯様な過酷な状況に置かれても、日親上人は小声でにお経の題目を唱えていたと伝えられています。また、当山は本阿弥家や長谷川等伯ゆかりの寺院です。
日蓮宗 妙顕寺
 日蓮宗の大本山。宗祖日蓮の遺命を受け、京都布教中の日像後醍醐天皇より寺領を賜って、元享3年(1321)妙顕寺を建立した。以来、京都における法華宗の根本をなす寺院として発展していった。妙顕寺、妙覚寺、立本寺の三寺はいずれも山号を具足山と称することから「龍華の三具足」と呼ばれている。「三具足」とは仏前に供養するための香炉、燭台、花立の3種の仏具のことを云う。
相国寺
 相国寺は、 相国寺は、臨済宗相国寺派大本山の寺で正式名称を萬年山相国承天禅寺という。本尊は釈迦如来。開基は足利義満、開山は義満が春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を招こうとしましたが、春屋妙葩はこれを辞退しました。そこで故人である妙葩の師・夢窓疎石を開山とし、春屋妙葩は形式上、第二世という形で入りました。着工10年目の明徳3年(1392)に完成。その間、義満はみずからも、ここに土を入れて運ぶこと三度に及ぶほど注力したと言われています。寺名は当時足利義満が左大臣であったことから、左大臣の中国名「相国(しょうこく)」と、後小松天皇の勅許を受けた「承天(じょうてん)」から、相国承天禅寺とされました。足利将軍家の菩提寺であり、伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺として、天龍寺についで京都五山の第二位に列せられました。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文雪舟は相国寺の出身である。また、著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は相国寺の山外塔頭である。
 法堂  (はっとう)
  松林の向こうにそびえる姿が荘厳な法堂は禅宗仏法を説く御堂で寺の中心となる建物でその大きさに圧倒されます。相国寺には仏殿が無いので、法堂が仏殿の役割も兼ねています。入母屋造・本瓦葺・正面7間・側面6間。無畏堂(むいどう)(本来畏れる必要なく説法を聞くお堂)とも称されます。明徳元年(1390)完成しました。当時天下第一の伽藍といわれましたが、応仁の乱(1467)の戦火で焼けたのをはじめ過去4回焼失しました。現在の法堂は慶長10年(1605)豊臣秀頼による再建です。焼失した仏殿の役割も兼ねる相国寺でもっとも重要な建物であり我が国の現存する最古の法堂建築です。法堂西側に張り出した唐破風のついた玄関も注目です。
庫裏  (くり)
相国寺の庫裏は「香積院(こうじゃくいん)」と呼ばれます。何度か火災にあい、現在の庫裏は文化4年(1807)の再建です。白い壁面と、ゆったりとカーブを描く破風、屋根の上に突き出した煙出(けむりだし)。一見して強いい印象を与えます。 
 
瑞春院は 相国寺の塔頭。作家・水上勉氏が9歳〜13歳まで雛僧としてここで修行し、その体験をもとに小説「雁の寺」を著したことで知られている。本堂の御本尊は6代将軍足利義教が寄進した平安時代の木像仏で、雲上来迎の姿は他に例を見ない。表千家の不審庵を模した茶室「久昌庵」(名工・諸冨厚士氏作・寄進)は、室町時代の石組みがそのまま残っている枯山水の雲頂庭池泉回遊式の心字池がある雲泉庭などがある
上御霊神社
  御霊神社は上御霊とも呼ばれ、上京の人々に広く信仰を集める由緒ある神社である。戦国時代の幕開けとなった応仁の乱は、文正2年1月18日に御霊の森に陣を構えた畠山政長(東軍)を畠山義就(西軍)が襲撃して御霊合戦が発端となった。畠山政長が御霊の森に陣を構えたのは、境内が広く、周囲に堀や川があり、防御に適していたことと、近隣に、味方軍、細川勝元ら味方の邸宅があり、援軍が期待出来たことが考えられる。一昼夜続いた戦いは畠山義就の勝利となり、畠山政長は敗走するが、これにより11年間に及ぶ戦乱が始まったのである。
西園寺
 藤原公経は承久の乱(1221年)の際、鎌倉幕府方に味方して、太政大臣に任命される。衣笠山麓に西園寺を創建して、西園寺を名乗り、以降代々、西園寺となり、明治・大正・昭和期の元老院として、国政に貢献した西園寺公望は末裔である
花さそふ嵐の庭の雪ならで 
ふりゆくものはわが身なりけり
入道前太政大臣西園寺公経
 
 天寧寺
上善寺
京都六地蔵巡りの地蔵「鞍馬口地蔵」がある寺として知られている。本尊の阿弥陀仏坐像は、行基作と伝えられており、寛永11年(1634年)嵯峨今林蓮華清浄寺から移してきたものである。境内東側墓地内には元治元年(1864年)の7月19日に起こった禁門の変のとき鷹司邸附近で亡くなった長州藩士の首塚碑が旧長州藩主毛利家によって建てられた。 
下鴨神社
 
平安末期〜鎌倉初期という時代は、源平の争い保元・平治の乱(1156〜59年)で平安京が荒廃したばかりでなく続く養和年間(1181〜2年)には飢饉に苦しめられました。元暦2年(1185)7月には都は大地震に襲われて多くの死傷者と家屋が倒壊しました。庶民は貧困のどん底に落とされ、途方に暮れ、先行きがまったく不透明な、混迷の時代を過ごし、世には無常観が漂っていました。斯様な時代に登場したのが法然、親鸞であり、鴨長明でした。長明はそんな世相を格調高く随筆「方丈記」に描きました。
ゆく河の流れは絶ずして しかももとの水にあらず
よどみに浮ぶうたかたは かつ消え かつ結びて
久しくとどまりたるためしなし 
源氏物語・紫式部ゆかりの 廬山寺
 廬山寺は、もとは平安時代前期に創建された天台宗園城寺系の本山で、京都の北、船岡山の山麓にあったと伝えられます。しかし、たびたび兵火に遭い、1573年、豊臣秀吉の都市計画に従って、現在の場所に移りました。現在の廬山寺は、紫式部の邸宅があった場所で、名作「源氏物語」はこの地で著わされたと云われています。小さな寺ですが紫式部ゆかりの地らしく「源氏庭」と名づけられた庭には白砂が敷かれ、毎年、紫の桔梗の花が凛として咲きます。
 
 
清浄華寺
 清浄華院(しょうじょうけいん)は浄土宗知恩院、知恩寺、金戒光明寺と並ぶ京都四箇本山の一つである。室町時代には称光天皇と六代将軍足利義教より篤い帰依を受け、浄土宗筆頭寺院になっている。御所に近いことからしばしば上洛する幕府要人や大名の宿所となり、享保14年(1729)4月28日には将軍徳川吉宗に献上するためベトナムから渡来したゾウを朝廷にも見物させることになり、当山が宿所になったことがある。幕末期は御所警備を担った会津藩、阿波藩、肥後熊本藩などの各藩士の宿所にもなった。会津藩主松平容保は半年ほど逗留している。 皇室帰依の由緒により、皇室の紋章・菊花紋を許されてきたが、明治以降は皇室の権威に遠慮して菊花に葉をかけた「葉菊紋」を寺紋としている
 金戒光明寺
 当山は知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の七大本山の一つである。通称黒谷と呼ばれるこの地に法然は草庵を結び、修行中、紫雲の中から金色に輝く善導が表われ対面を果たした。このことが契機で、法然は浄土宗開宗の決意をして紫雲山光明寺を建てた。第八世運空のとき、後光厳天皇に戒を授けて、金戒の二字を賜り金戒光明寺と呼ぶようになった。法然が最初に浄土宗の布教を行った地であることに因み、後小松天皇から「浄土真宗最初門」の勅額を賜った。江戸時代初期に城郭構造に寺域は改修され、文久2年(1862)には、京都守護職の本陣となった。新撰組発祥の地でもある。 
 平安神宮
 平安神宮は明治28年(1895)平安京遷都1100年を記念して創設された神社です。平安京に遷都した桓武天皇と幕末の孝明天皇を祀ります。毎年10月22日、平安京遷都を記念して行われる時代祭は、ここ平安神宮の祭礼です。幕末から平安時代初期まで、さまざまな時代の衣装をまとった行列が、京都御所から平安神宮までを歩きます社殿の設計は築地本願寺や震災祈念堂を設計した建築家 伊東忠太、技術顧問として日光東照宮や東大寺大仏殿の修復工事に関わった木子清敬(きこきよよし)が担当しました。拝殿向かって左右に、白虎楼・蒼龍楼が聳えています。屋根は四方流れ・入母屋造・碧瓦本葺、朱塗りの荘厳な建物です。
 
 これより神苑へ
 白河院跡
 白河院は,九世紀半ば摂政藤原良房(804〜72)が平安京外のこの地に営んだ別業で,代々藤氏長者に伝えられたが,のち白河天皇(1053〜1129)へ献上され法勝寺となった。藤原道長(966〜1027)・頼通(992〜1074)期には天皇や女院の行幸・御幸が度々みられ桜の名所として知られる。この石標は白河院跡を示すものである。 大正8年(1919)、呉服業下村忠兵衛の庭園として築かれました。ここは白河上皇の法勝寺の跡地と言われています。東山を借景とし、琵琶湖疏水を引き入れた池泉回遊式の本格的な山水庭園で、作庭は七代目小川治兵衛です。 
満願寺
 後白河法皇の側近であった俊寛は、僧都に昇り、法勝寺の座主を務めました。治承元年(1177)、東山鹿谷にて西光法師らとともに打倒平家の計画を話し合います。鹿谷事件です。計画はの密告により事前に発覚。俊寛は丹波少将成経、平康頼とともに鬼界が島に流れて、赦されることなくその地で一生を終えました。当山は、その俊寛ゆかりの寺院です。
満願寺より、ふたたび平安神宮応天門前まで歩き、
そのバス停から、バスで八坂神社前まで移動。10分と掛からず到着。
八坂神社・祇園花見小路通り
 花見小路通りの茶屋・一力亭の前を歩いていたとき、前方から付き人と一緒に歩いてくる美人とすれ違った。”藤原紀香”でした。綺麗!!!
建仁寺 
建仁寺は建仁2年(1202)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし山号を東山と称します。正元元年(1259)建長寺開山蘭渓道隆が入寺してからは禅の作法、規矩が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えますが、戦乱と幕府の衰退により荒廃します。天正年間(1573−1592年)に安国寺恵瓊が方丈や仏殿を移築しその復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備されました。明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派として分派独立し、建仁寺はその大本山となりますが、神仏分離の法難により塔頭の統廃合が行われ境内が半分近く縮小され現在に至っています。 
 俵屋宗達の最高傑作と言われ、彼の作品の代表作である。
 これより方広寺に向かうが、途中、六波羅蜜寺や六道珍皇寺などの見どころがあるが時間の都合で割愛。
方広寺
豊国神社 
耳塚 
 是より、10分程で五条大橋に出て、しばし鴨川の畔にて寛ぎ、本日の散策を終了しました。
〔本日の歩数〕  35,003歩     21.4 km