2018年11月 1日(木) |
宿泊した五条のホテルを早朝に出て、京阪電車清水五条駅から墨染駅に向かい、徒歩数分のところにある藤森神社から、本日の散策を開始した。その後、伏見城、伏見御陵、伏見名所史跡などをめぐり、石清水八幡宮に歩みを進め、大阪淀屋橋に向かい、本日を締めくくりました。 |
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藤森神社 |
藤森神社は神功皇后が新羅遠征の帰路、藤森の地に軍旗を建て、神祭りをしたことに始まると言われます。『日本書紀』の編者として知られる舎人親王を祀り、学問の神として信仰されています。加えて、馬の神・勝負事の神としても信仰を集めて、5月5日の藤森祭では「駈馬神事」という馬の曲芸乗りをして参道を駆け抜ける行事があり、多くの見物客で賑わいます。当社は菖蒲の節句の発祥の地とされ、菖蒲が勝負に通じることから、勝負事の神社としても信仰されています。馬に勝負事ですから、ジョッキーや競馬関係者の参拝が絶えません。馬の像の前にはニンジンがお供えしてあります。また藤森神社は「アジサイの宮」とも呼ばれます。アジサイ苑では6月から7月にかけて3500株のアジサイが咲き、見事な景観を示してくれます。 |
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本殿は切妻造、檜皮葺。正徳2年(1712)中御門天皇から賜った宮中の内侍所
内侍所は賢所ともいい、三種の神器の一つ、神鏡(八咫の鏡)を安置する建物。 |
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神功皇后が新羅遠征の帰路、藤森の地に立ち寄った時、軍旗を地面にさして、勝利を感謝して神祭りをしたのを記念した塚です。
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むらさきの 雲とぞよそに みへつるは 小高き藤の 森にぞありける 小侍院
藤森の歌: 紫の雲のように向こうに見えているのは、小高い藤の森であることよ。小侍院は二条天皇中宮・藤原多子(たし)に仕えた女房です。ついで高倉天皇にも仕えました。『平家物語』「月見」の段では、彼女が詠んだ歌「待つ宵のふけゆく鐘の声きけば帰る朝の鳥はものかは」から「待宵の小侍従」と呼ばれています。
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焼塩屋権兵衛は深草の地に生まれ、人情に篤く人に慕われ、村の年寄(役員)に選ばれました。天明5年(1785)時の伏見奉行・小堀政方(こぼりまさみち)が圧政を行い民を苦しめました。そこで焼塩屋権兵衛は文殊九助らと共に幕府に命がけの直訴を行い、ついに小堀政方を罷免に追い込みました。直訴した文殊九助以下7人らは捕らえられ、獄中で病死しました。しかし民衆を救ってくれた義民であるということで、ここに祀ってあるわけです。 |
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御香宮神社 |
日本第一安産守護之大神として広く崇められている神功皇后を主祭神として、仲哀天皇、応神天皇他六柱の神をまつる。 初めは「御諸神社」と称したが、平安時代貞観四年(862)に、この境内から「香」の良い水が湧き出たので、清和天皇よりその奇瑞によって「御香宮」の名を賜った。
豊臣秀吉は天正18年(1590)願文と太刀を献じてその成功を祈り、やがて伏見築城に際して、城中に鬼門除けの神として勧請し、社領三百石を献じた。
その後、徳川家康は慶長10年(1605)に、元の地に本殿を造営し社領300石を献じた。 慶応四年(1868)正月、伏見鳥羽の戦いには、伏見奉行所に幕軍が據り、当社は官軍(薩摩藩)の屯所となったが、幸にして戦火は免れた。 |
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伏見奉行所跡・善光寺 |
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伏見城 |
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伏見城は3度にわたって築城され、1592年に指月山に築かれたものを指月山伏見城、後に木幡山に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に、徳川家康によって再建された徳川期とにわけられます。豊臣期の伏見城は、豪華な様式が伝わります。秀吉の死後豊臣秀頼が大阪城に移ると、代わって徳川家康がこの城に入り政務を行いました。関ヶ原の戦いの際には、家康の家臣である鳥居元忠らが伏見城を守っていましたが落城。建物の大半が焼失しました。焼失した伏見城は1602年ごろ家康によって再建され、1619年に廃城とされました。この時、建物や部材は、二条城、淀城、福山城などに移築されました。伏見城の後には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられ、桃山と呼ばれるようになり、やがて伏見城は桃山城、あるい伏見桃山城と呼ばれるようになりました。 |
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伏見御陵 |
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中書島 |
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中書島
中書島とは文禄年間、賤ヶ岳の七本槍で知られる脇坂安治が中務少輔に任官していたとき宇治川の分流に囲まれた島に屋敷を建て住んだ。役職の中務少輔の唐名が「中書」であったことから、脇坂は「中書(ちゅうじょう)さま」と呼ばれていた。その「中書さま」の住む屋敷の島という理由で「中書島」と呼ばれるようになった。伏見には他にも、かつての大名屋敷に因む地名が多々見られる。桃山時代まで伏見港一帯は湿地であった。豊臣秀吉が伏見城を政庁としたことによって、武家屋敷が立ち並ぶようになったが、江戸幕府は伏見城を廃城としたため江戸時代前期には荒廃した。一方で高瀬川が開削され京都と大坂が結ばれると、その河口としてふたたび水運における重要性が増して活況となった。それに加えて、伏見城下にあった遊廓が移転され繁栄するようになった。酒の名所であるために遊びに来る人が多く、また、宇治川に近く、交通の便が良い中書島は遊廓であると同時に花街でもあり、祇園をしのぐほどの名妓を輩出してきた。明治末期には京阪電車が開通し、ますます栄えるようになった。昭和初期には深草に司令部を置く第16師団の将校、兵士にも利用されていたが、昭和33年(1958)、売春防止法によって遊廓としての役割を閉じ、花街のみとなった。当初、転業をめぐってお茶屋派と学生相手の下宿派に分かれ対立してきたが沈静化し、その後、徐々に衰退してくるようになり、昭和45年(1970)に花街としての長い歴史に終止符を打った。現在は普通の住宅地であり、わずかながら花街、遊廓時代の建物が残されている。 |
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伏見界隈 |
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金札宮
金札宮は伏見で最も古い由緒を誇る社の一つで、旧東海道筋に面する。天太玉命(あめのふとだまのみこと)他2柱をまつり、社伝では、天平年間750年の創建と伝わる。観阿弥という謡曲「金札」の舞台でもある。境内にはクロガネモチの巨木が茂り、奥に小さな本殿が鎮座する。本殿の創始伝承では、干ばつの際に翁が白菊を束ねて振るったところ、露が落ちて清水が湧出したという。この奇瑞を喜んだ里人が天皇に奏上して社殿を造営して翁を祀ったことが始まりと伝承されている。 |
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石清水八幡宮 |
石清水八幡宮は、京都盆地南西、木津川・宇治川・桂川の合流点近くの男山(鳩ヶ峰)の山上に鎮座する。貞観元年(859)、豊前国の宇佐神宮に籠もった南都大安寺の僧行教が、「吾れは都の近くの男山に移座して国家を鎮護したい」という八幡神のお告げを受けて勧請したのがそのはじまり。京都の裏鬼門を守護する神社として朝廷・公家・武家の尊崇を集め、とくに源氏は氏神として信仰し、源義家は石清水八幡宮で元服して「八幡太郎義家」を名乗った。源頼義・源頼朝によって創建された鎌倉八幡宮はじめ多くは石清水八幡宮が勧請されている。今日でも「やわたのはちまんさん」として多くの信仰を集めている。室町幕府の時代に入ってからは、三代将軍足利義満がしばしば参詣し、六代将軍を籤引きで決める神籤も八幡宮神前で行われるなど、足利将軍家との強い関係が見られる。応仁・文明の乱後は衰退したが近世に入ると織田信長、豊臣秀吉らによる堂宇の寄進が行われ、江戸時代に入ると幕府の庇護により江戸中期においては40を越える坊舎が立ち並び、壮観な宗教景観が作られた、しかし、明治元年に神仏分離令が発令されたことから生じた廃仏稀釈により、大部分の坊舎と内部の仏像が破却され、境内の景観は一変した。社号は明治2年8月(1869)には「男山八幡宮」と改称させられた。「石清水八幡宮」にへ復帰したのは大正7年1月(1918)のことで、それ以降現在に至っている。
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八幡駅から男山山頂までわずか3分 ! |
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左手の張り出している山は「山崎」、遠く京都市街、その奥に比叡山が望める |
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〔本日の歩数〕 43,517歩 26.7km |
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