2020年 5月28日(火) その 6
 三条大橋界隈
瑞泉寺
 豊臣秀次
 秀次は永禄11年(1568)に貧農だった秀吉の実姉(日秀尼)の長男として生まれる。幼名は治兵衛。秀吉が柴田勝家を破って、天下人となると、幼い頃から養子に行っていた三好家を去り、秀吉配下の家臣になる。その後、秀吉の片腕となり、数々の戦に参陣して功を立てます。コ川家康と対峙した小牧・長久手の戦いにおいては、16歳で総大将を務めましたが、コ川方の奇襲反撃に遭い、重臣池田恒興や森長可らの武将を失い、秀吉から厳しく叱責を受けます。しかし、紀州攻めでは、千石城に立て籠もっていた根来衆を殲滅する戦功を立てています。天正18年(1590)の小田原城征伐では北条方の堅城山中城を半日で陥落させています。この頃には、文武両道の名君と呼ばれるようになり、叔父の秀長と供に、豊臣政権を支える重職に就き、豊臣の名も下賜され、豊臣秀次を名乗るようになりました。そして、琵琶湖に面した近江八幡の領主を授かり、八幡山城を築城して城下町の整備にも尽力し、若き城主として善政を行ったことが後世伝えられています。秀次は、武芸にも秀でていて剣術の腕前も達人級であったと言われています。また、千利休から茶を学び、連歌や能楽、謡曲も嗜み、日本書記や源氏物語などの古典にも精通していたと云われています。このように秀次は当代随一の文化人でもあり、公家社会においても信頼を得ていたのです。天正19年(1591)1月諸事に協力してくれた叔父秀長が病死、8月には、秀吉の嫡男鶴松が夭折します。この頃、秀吉の養子となり、関白職を譲り受けて、住居を聚楽第に移します。併せて、秀吉が隠居地の伏見城に移りますが、この城の築城普請を指揮して、大いに活躍します。政権の2代目として活躍を始めたとたん、秀吉の側室淀君の懐妊が判明し、文禄2年(1593)に秀頼が誕生しました。この頃から、秀次の無言の圧力を感じるようになり、うつ病の症状がでてくるようになりました。文禄4年(1595)突如秀次に謀反の嫌疑が掛かりました。秀次は、秀吉に嫌疑の弁明に伏見城に出向きますが、秀吉は、面体せず、「高野山へ入れ」との命令を下します。秀次は命ぜられるままに剃髪して高野山に入り、謹慎しましたが、数日後、切腹命令が出て、自害しました。戦国の世にあっても、仏門に入る者に死罪を与えることは許されない行為でした。半月後、残された秀次の妻子39名は、悉く三条河原に集められ、その場で斬首されました。亡骸は、鴨川畔の瑞泉寺に葬られました。 享年28歳

    【辞世】 磯かげの松のあらしや友千鳥 生きて啼く声の住みにしの浦
  (要約:  浜辺の松に嵐が吹き付け、沙汰を待つ間はわたしの心も恐怖に襲われた。 しかし、自分を信じてくれる友千鳥の声を聞くことができたのだから、これまでの人生を噛みしめ、死に行く今は心が澄み渡っている )
      * この事件は、「朝鮮出兵」とともに、秀吉治世の、二大汚点と云われています。