2020年 5月29日(水) その 2 |
上御霊神社 |
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左: 松尾芭蕉句碑 - 松尾芭蕉が元禄3年(1690年)12月に参詣し俳句を奉納。
半日は神を友にや年忘れ
右: 近隣に住む広辞苑編者新村出が参拝に訪れたとき詠んだ歌
上御霊のみやしろに詣でてよめる 千早振る神のみめぐみ深くして 八十ぢに満つる 幸を得にけり |
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応仁の乱ゆかりの史跡 |
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天正2年(1574)に織田信長から上杉謙信へ贈られた「上杉本洛中洛外図屏風」は応仁の乱合戦の様子を描いている |
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百々橋 (どどばし)
かって、この場所には本法寺や報恩寺の東に、その痕跡を残す小川が流れていた。百々橋に名は「中昔京師地図」に記されている「百々之辻」に由来すると伝えられ、戦国時代の京都を描いた上杉本洛中洛外図屏風」には宝鏡寺の東を流れる小川に木橋が描かれている。この橋が知られるようになったのは、戦国時代にこの地を中心として有名な合戦が行われたことによる。特に応仁・文明の乱(1467~1477)では、この橋から一条戻橋までの一帯が、西軍山名方と東軍細川方との主戦場になった。小川は昭和40年暗渠となり、江戸時代に石橋代えられた百々橋は解体され、橋材は各所に移築保管された。この礎石は、橋脚を支えた4基の一つで、貴重な遺産として、この地に戻された。 |
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日蓮宗 妙顕寺 |
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茶道・表千家、裏千家 |
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日蓮宗 本法寺 |
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日蓮宗 妙覚寺 |
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道三の義理の息子信長は妙覚寺に十八回宿泊
千利休による茶会も開かれていた妙覚寺は戦国の主役たちと深い繋がりがあります。特に斎藤道三とは父の長井新左衛門尉も妙覚寺の僧侶でした。道三も妙覚寺で得度を受け法蓮房と名乗る僧侶で、妙覚寺の十九世日饒上人は斎藤道三の息子です。そして小見の方との娘が織田信長の正室に嫁いだ濃姫です。また、長良川の戦いの前夜には日饒上人に美濃の一国は信長に譲ることや妙覚寺の管首こともすべて後顧の憂いなく…と、遺言状をおくっています。また、妙覚寺は将軍足利義輝など様々な人物の宿所になっており、中でも二十数回京都を訪れた織田信長の一番の定宿で十八回も宿泊をしています。光秀に襲われた本能寺には僅か三回しか宿泊しなかったのです。 |
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