興福寺
興福寺 
  興福寺は、京都山科の藤原鎌足私邸に建立された山階寺が前身となります。飛鳥を経て、和銅3(710)年平城遷都に伴い藤原不比等によって現在地に移転されました。その際に興福寺と名付けられ、以降、藤原氏の氏寺として大いに繁栄、奈良時代初期には四大寺の一つにあげられ、四町四方に170坊あまりの堂舎が立ち並ぶ寺院として隆盛を極めました。治承4年 (1180)の平重衡の南都焼討ちによって焼失した堂塔は、鎌倉時代に復興を遂げますが、その後、享保2(1717)の火災によって、伽藍の西半分を失いました。境内には光明皇后創建とされる五重塔、北円堂の国宝建築物をはじめ、南円堂、国宝館などが立っている法相宗の大本山。また多くの仏教彫刻の名品を所蔵しています。
 中金堂 (ちゅうこんどう)
   中金堂は興福寺伽藍の中心となる御堂で、寺伝では創建者は、当時、日本の律令制度をまとめ藤原氏の栄光と基礎を築いた藤原不比等と言われています。創建当初の中金堂の規模は当時の奈良朝寺院のなかでも第一級の建築物でした。当時は、丈六釈迦如来像を中心に、薬王、薬上菩薩像を脇侍に従え、四天王像、さたに、養老5年(721)に、橘三千代が夫不比等の一周忌に造立した弥勒浄土変の群像も安置されていたと言われています。その後、焼失、再建を6回繰り返し平成30年(2018)に再建落慶を迎え復元されました。
 北円堂
  北円堂は、日本に現存する八角円堂のなかで、最も美しいと称賛されています。この御堂は、藤原不比等の一周忌にあたる、養老5年(721)8月に元正天皇が長屋王に命じて建てさせたもので、興福寺伽藍の西隅に位置していますがここは平城京を一望の下に見渡す事の出来る一等地で平城京造営の推進者であった不比等の霊を慰める最良の場所でした。華麗で力強く、組物に三手先斗供(みてさきときょう)が使われ、内陣の天井には天蓋が輝き、彩色された笈形(おいがた)に特長があります。堂内には、運慶が造作した本尊弥勒菩薩坐像を中心に無著(むじゃく)・世親菩薩立像乾漆四天王立像(共に国宝)が安置されています。

 南円堂
  南円堂は日本で最大の八角堂で、弘仁4年(813)藤原冬嗣が父 内麻呂追善の為に建てました。基壇築造の際には地神を鎮めるために、和同開珎や隆平永宝を撒きながら版築したことが発掘調査で明らかにされました。また鎮壇には弘法大師が係わったことが諸書に記されています。不空羂索観音菩薩像を本尊とし法相六祖像、四天王像が安置されています。興福寺は藤原氏の氏寺でしたが、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、北家繁栄の礎となった南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めました。その不空羂索観音菩薩像が身にまとう鹿皮は、藤原氏の氏神春日大社との関係で特に藤原氏の信仰を集めました。現在の御堂は創建以来四度目の建物で、寛保元年(1789)に再建されたものです。 
 阿修羅像
  世界遺産・阿修羅像は、興福寺国宝館に安置されています。若々しい肉体に、3つの顔と6本の腕を持つ像で、奈良時代に作られました。3つの顔はそれぞれ微妙に異なる表情をしており、戦いの神である阿修羅が、仏教に帰依して、悟りを開いていく様子を表していると言われています。 (当日は休館で見学できず、写真はカタログからです)