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東大寺 |
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東大寺
東大寺は華厳宗の大本山の寺院。正式には金光明((きんこうみょう))四天王護国之寺という。奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。奈良大仏として知られる盧舎那仏を本尊とする。開山は良弁。奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(約70m以上)を含む大伽藍が造立されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物が焼失した。現存する大仏は、度々修復を受けており、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代中期の宝永6年(1709)に規模を縮小して再建されたものである。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。聖武天皇が大仏造立の詔を発したのは天平15年(743)10月15日である。当時、都は山背国の恭仁京(木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は天平17年(745)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。また、天平勝宝元年(749)には鎮守社として手向山八幡宮が創建されている。難工事の末、ようやく大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・バラモン僧正菩提僊那を導師として大仏開眼会が挙行されたのは天平勝宝4年(752)のことでした。
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南大門
南大門は平安時代の応和2年(962)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたものです。東大寺中興の祖である俊乗房重源(ちょうげん)が中国・宋から伝えた建築様式といわれる大仏様を採用した建築として著名である。大仏様の特色は、貫と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていること、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられる。門内左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子1対を安置する。上層の正面中央には「大華厳寺」と書かれた扁額が掲げられている。
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木造金剛力士立像(国宝)
木造金剛力士立像は、高さ8.4mにおよぶ巨大な木像です。建仁3年(1203)にわずか69日で造られました。門の向かって右に吽形、左に阿形を安置しています。これは一般的な仁王像の安置方法とは左右逆です。『東大寺別当次第』という史料によると、本像は建仁3年(1203)、大仏師運慶、湛慶、快慶、定覚によって造られたことが従来から知られており、阿形像と吽形像の作風の違いから、前者は快慶、後者は運慶が主となって制作したと考えられていました、しかし平成の解体修理で、総指揮は運慶、阿形像は快慶、吽形像は「定覚」「湛慶」によって造立されたといわれています。、この巨大仏像は、建仁3年(1203)に画期的な寄せ木工法を取入れて、わずか69日で完成されました。 |
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大仏殿
大仏殿は、江戸時代になって公慶上人の尽力により大仏、大仏殿とも復興した。現存する大仏の頭部は元禄3年(1690)に鋳造されたもので、元禄5年(1692)に開眼供養が行われている。大仏殿は宝永6年(1709)に落慶したものである。文化3年(1806)、下層の屋根がその重みに耐えられず波打って垂れ下がってきたために屋根を支える支柱を設けている。明治10年(1877)頃から修理の計画は検討されたが、本格的な修理が施されたのは、明治39年(1906)からであった。大屋根を支える虹粱にイギリス製の鉄骨トラスが組み込み、大正4年(1915)、大仏殿落慶供養が行われた。大仏殿は寄棟造、本瓦葺き。2階建てに見えるが、構造的には一重裳階(もこし)付きで、正面5間、側面5間の身舎(もや)の周囲に1間の裳階を回している。間口57m、奥行50m、高さ47mで、奥行と高さは創建時とほぼ変わりないが、間口は約3分の2に縮小されている。建築様式は、鎌倉時代に宋の建築様式を取り入れて成立した大仏様が基本になっており、水平方向に貫(ぬき)を多用するのが特色である。豊臣秀吉・豊臣秀頼父子による、初代・2代目方広寺大仏殿の相次ぐ造営によって、日本各地の柱材に適した巨木を伐採しつくしたことにより、この頃にはすでに巨材の調達が困難であったため、柱は芯材の周囲に桶状に別材を巻きつけた集成材が用いられている。なお、しばしば「世界最大の木造建築物」として言及されるが、20世紀以降に近代的工法で建てられた木造建築には、大仏殿を上回る規模のものが存在する。大仏の左右には脇侍として木造の如意輪観音坐像と虚空蔵菩薩坐像を安置。堂内北西と北東の隅には四天王のうちの広目天像と多聞天像を安置する。いずれも江戸時代復興期の像である。四天王のうち残りの2体(持国天、増長天)は未完成に終わり、両像の頭部のみが大仏殿内に置かれている。堂内には他に、大仏前に高さ207㎝の銅製大華瓶が付いている8本脚の揚羽蝶で有名で、元禄5年開眼供養会に池坊門弟より、約9mの立花二口が奉納された。
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多聞天(毘沙門天) |
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広目天 |
如意輪観音 |
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大仏殿より中門を望む |
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