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大鐘楼 |
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東大寺の梵鐘は大仏開眼と同年に鋳造されました。鐘声の振幅が非常に長く、「奈良太郎」と呼ばれています。総高3.86m、口径2.71m、重量26.3tあり、撞木はケヤキ造りで、長さ4.48m、直径30cm、重さ180kg、金具を入れると約200kgもある。
大きな釣鐘であるところから古来東大寺では大鐘(おおがね)と呼んでいます。この大鐘をつっている鐘楼は、俊乗堂と念仏堂にはさまれた鐘楼ヶ丘と呼ばれる場所に建っていますが、現在の建物は、重源上人のあとを継いで東大寺の大勧進となられた栄西(ようさい)禅師が鎌倉時代(承元年間・1207~10)に再建したもの。大鐘は天平勝宝4年(752)に鋳造されたと言われていますが、その後、延久2年(1070)10月と永長元年(1096)10月に地震のため墜落し、又延応元年(1239年)6月には龍頭が切れて転落しましたが、すぐに修理されたことが修理銘によって知られています。 |
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俊乗堂
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俊乗堂
俊乗堂は、元禄年間、俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)の遺徳を讃えて公慶上人が鐘楼の北側に建立しました。堂内中央に国宝「重源上人坐像」が安置されています。重源は保安二年(1121)京都に生まれました。父は紀氏出身の紀季重です。13歳で醍醐寺に入って密教を学び、仁安2年(1167)宋に渡り、研鑽を積んで、翌年帰国。治承4年(1180)平重衡によって大仏殿が焼かれ、東大寺の多くの伽藍が焼失しましたが、翌年、老齢となった彼が東大寺再建の大勧進職に任ぜられ、10数年の歳月をかけて東大寺の復興を成し遂げました。再建に当って、大仏様(だいぶつよう)と呼ぶ宋風建築様式を取り入れ、再建の功により大和尚の号を受け、健永元年(1206)86歳で入滅しました。
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行基堂 |
大僧正 行基
天平年間743年、平城京一帯は伝染病が大流行し、多くの人びとが病に倒れていました。さらに天候不順による飢饉(食糧不足)や地震災害も重なり、国内はこのとき、史上最悪の状況となっていました。そこで、聖武天皇は、「皆が幸せになるために毎日3回大仏を拝み感謝の気持ちを忘れないでほしい」という願いを込めて大仏造立を決意します。しかし、人手が足りず、大仏造立が全く進まなかったのです。そこで聖武天皇は多くの人々から人望があり、多くの社会事業を行ってきた行基の集団に大仏造立を要請したのです。この頃の行基は、僧尼令によって自身の布教活動や慈善事業を弾圧されていたのですが、聖人の心を持っている行基はこの大仏造立の要請を受けたのです。東大寺の大仏が完成するまでに、多くの苦難に遭遇しましたが、9年の歳月を掛けた752年に完成しました。そして、同年東大寺で大仏開眼会が盛大に行われました。この式典の場には弟子の景静と大仏造営に協力した多くの人々が参列しました。しかし、最大の功労者行基の姿はありませんでした。行基は、その3年前(749)に82歳で亡くなっていたのです。
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二月堂 |
二月堂
旧暦2月に「お水取り(修二会)」が行われることからこの名で呼ばれました。二月堂は1180年、平重衡の兵火、1567年、三好・松永の戦いによる2回の戦火を受けましたが、焼け残りました。しかし、寛文7年(1667)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物です。本尊は大観音(おおかんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏です。建物は2005年12月、国宝に指定されました。
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三月堂 |
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法華堂 (三月堂)
法華堂は、東大寺建築のなかで最も古く、東大寺創建以前にあった金鍾寺の遺構とされています。天平勝宝4年(752)に建立された本尊不空羂索観音を祀るための御堂です。旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われるようになり、三月堂ともよばれるようになりました。もとは寄棟(よせむね)造りの正堂(しょうどう)と礼堂(らいどう)が軒を接して建つ配置でしたが、鎌倉時代、礼堂を入母屋(いりもや)造りに改築して2棟をつなぎました。正堂は天平初期の建築ですが、礼堂は大仏様の特色が見られる鎌倉時代の建築です。時代の異なる建築が高い技術によって結ばれ、調和の取れた美しい姿を見せています。
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四月堂・念仏堂 |
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四月堂
四月堂は、正式には東大寺の「三昧堂」といい、「法華三昧会」が旧暦の4月に行われるため、一般に四月堂と呼ばれている。創建は治安3年(1021)あるいは治暦3年(1067)といわれ、現在の建物は、延宝9年(1681)の墨書銘がある。本尊は重要文化財の千手観音や阿弥陀如来像が安置されています。
念仏堂
念仏堂は鎌倉時代の建築物で重要文化財。本尊は鎌倉時代の地蔵菩薩坐像。 治承4年1180の南都焼討で先陣を勤めた阿波重能らの罪を救うため、重源の発願で造立されたものです。
南都焼討
治承4年(1180)、後白河法皇の第三皇子以仁王が平氏討伐の令旨を発すると全国の源氏が立ち上がりました。平治の乱後、伊豆国に流されていた源頼朝も挙兵して鎌倉入りを果たし、10月には富士川の戦いで平氏軍を敗走させて東国をその支配下に入れています。一方、平清盛は、全国で反平氏勢力の蜂起が続く中、12月12日、五男重衡に園城寺(三井寺)を攻めさせて焼き払い、続いて東大寺・興福寺の反平氏勢力を一掃するため、重衡を南都に向かわせ、12月28日には「南都焼討」を行ったのです。これによって興福寺が全焼、東大寺も主要伽藍のほとんどが焼け落ち、難を逃れたのは二月堂・法華堂・転害門などだけだったと言われています。
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