天神橋筋商店街
 日本一長い商店街で有名な天神橋筋商店街。天神橋を起点とし、北に天神橋7丁目まで全長2.6km程にもなる。
もともとは大阪天満宮の参道に店が集まり、後に商店街として発展した。安くておいしい食べ物が沢山並んでいる
成正寺
大塩の乱
 天保3~4年(1832)にかけて、収穫量が平年の半分以下という天保の飢饉が起き、農村や都市で百姓一揆・打ちこわしが100件以上起き、特に、天保7年(1836)の飢饉の際に起きた郡内騒動・加茂一揆は、幕府に衝撃を与えました。大都市大坂にも飢饉の影響が及び、多くの餓死者が出ました。しかし、この非常事態にも関わらず、強欲な商人がたちは米を買い占め暴利を得て、大坂町奉行所は、貧民の救済策をとるどころか、幕府の指示で大量の米を大坂から江戸に廻送しました。大坂町奉行所の元与力で、陽明学者の大塩平八郎(1793~1837)は、自分の蔵書を売るなどして貧民救済に奔走しましたが、窮民の救済と幕政の根本転換を求め、家塾洗心洞の門弟や民衆を動員して大塩の乱を起こしました。この乱で江戸の多数の家屋に火の手が上がりましたが、最終的に半日で幕府軍に鎮圧されました。大塩の乱は、幕府の元役人が首謀者ということもあり、幕府や諸藩に大きな衝撃を与えました。同年には国学者の生田万が大塩の門弟と称して越後柏崎の代官所を襲った生田万の乱が起き、摂津能勢郡でも「大塩味方」を掲げた一揆が起こり、江戸でも大塩派の残党の蜂起が予告されるなど、不穏な情勢が続きました。一方江戸では、幕府が「お救い小屋」を建て窮民を収容したり、寛政の改革で設けた江戸会所の備蓄米や銭を民衆に与え、打ちこわしなどを未然に防ぎました。 

                                         つづく