高槻城趾
 
 高山右近は、天正元(1573)年、21歳ごろに高槻城主となり、キリスト教を信仰し、キリシタン大名と呼ばれます。
20を超える教会を建設し、当時人口2万5千人のうち7割強がキリスト教信者であったといいます。一方、領主として城下町を整備するばかりでなく、前田利家の家臣として小田原の合戦に参戦しています。そして築城や茶の湯にも才能を発揮して、上司前田利家には信頼されていたと当時の記録にあります。 1614年、徳川家康によって「伴天連追放令」が発布されるとキリシタンの全面的禁圧(力をもって禁止する)が命じられました。 右近もその対象となったため、金沢から長崎まで旅を続け、そこでしばし逗留していましたが、右近一族は、長崎で国外に追放令が下り、フィリピンに渡り、首都マニラでその生涯を終えました。享年63歳。
 
 高槻城公園芸術文化劇場は、高槻城の二の丸跡に、緑に囲まれた憩いの場として建設されました。市民の交流の場、文化芸術の創造発信拠点として、多くの市民が集い、新たな賑わいが生まれています。当劇場は緑に囲まれた高槻城公園エリアにあります。高槻城を思わせる塀や堀を再現し、城下町の格子戸をイメージさせる縦格子の木材で囲まれた南館の外観は公園の風景に融け込んでいます。北摂津地区最大級のトリシマホールで採用されている客席壁面の木製キューブを使用しています。太陽ファルマテックホールでは緑に包まれた音楽ホールの効果を醸し出しています。そして高槻初の本格的な演劇・ダンスに適したサンユレックホールでは多彩な表現が取入れられています。その他、10室の中小スタジオはさまざまな活動に利用できます。エントランスは公園の散策路とつながり、ロビーやカフェに面した屋外広場ではイベントも開けるなど、どなたでも気軽に入れる開かれた施設でなっています。また、602席の中ホールシャンデリアのあるレセプションルーム、展示室などを有する文化ホールは北館に名称を改め、南館と一体の役割を担っています。
 藤井竹外 (ちくがい)
幕末の思想家・漢詩人。文化4年(1807) 高槻藩士の家に生まれ、9代藩主永井直進(なおのぶ)が設立した藩校「青我堂(せいがどう)で、青年期から頼山陽の詩作に傾倒して、学ぶばかりでなく、鉄砲術をはじめ武芸にも励み文武両道の素養を備えた藩士として頭角を顕わした。旅を好み、酒を汲んでは詩作に取り組み七言絶句を得意としたことから、「絶句の竹外」呼ばれていた。嘉永7年(1854)刊行の「竹外二十八字詩」には、215首の詩が収められている。中でも「花朝下殿江(かちょうでんこうをくだる)」「花井(はなのい)」「芳野」は、竹外の代表作として知られている。慶応2年、60歳で世を去ったが、門下生高階春帆、市村水香らが明治時代に「竹外吟社」を結成し、竹外作風の継承と発展に努めた。竹外の墓は、本行寺にある。
本行寺
大阪府高槻市にある日蓮宗の仏教寺院。山号は常智山。戦国時代、三好元長細川晴元の崇敬が厚く隆盛を極めたと伝えられるが、法華一揆とそれに続く天文法華の乱により堂宇は焼け落ち焦土となった。その後三好長慶により毘沙門堂として再興されたものの、高山右近の時代に諸堂宇は焼き討ちされ、日蓮聖人像(祖師像)のみが住職により備前国に逃れたとされている。その後高槻に復帰がかなうものの、創建の地への復帰、元の寺号の呼称が許されず、慶長元年(1596)に、後に久遠寺の第20世法主となる一如院日重上人の手により現在の地に再建され、そのときに寺号を常智山本行寺と改めた。慶安4年(1651)に、高槻城主の永井直清が平癒祈願をし、見事かなったことから本堂を建立し、それ以来高槻城主の祈願所となり、「病を除く寺」として有名になったとされる。現在、境内には、本堂のほか、妙見堂、大黒殿、客殿、鐘楼などがある。この寺の山門は高槻城にあった門が移築されたもので、本瓦茸の高麗門といった様式になっている。また、境内には高槻出身の漢詩人・藤井竹外(ふじいちくがい)の墓があります。 
                                                               つづく